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 甘い香りが立ち込めている。焼き立てのスポンジの香り、甘いクリームにチョコレート。砂糖で煮た果物や、とろける蜂蜜の香り。

 それらが満ちたこの空間は、オレンジロードで経営しているケーキ屋「みどりのやねのちいさなおみせ」だ。焼き上がったスポンジをオーブンから取り出して、冷ましている間に手早くタルトの生地を練っていく。無駄のないその動きを止めることなく、フレットは「レナ」と呼んだ。

 厨房の外、カウンターでレジ打ちをしていたレナは厨房に顔を出して「何?」とフレットを見た。

 アシュの事件の後。家から出るようになったレナは、フレットのケーキ屋で働くようになっていた。今まで家から出されることなく、家の手伝いしかしたことのなかったレナには全てが新鮮で、ケーキを焼く作業も、レジを打つ作業も楽しくて仕方がない。

 最近では、ようやくケーキ屋の仕事にも慣れてきた。それと同時に、レナの中ではある思いが芽生え始めていた。

 もっと、知りたい。

 学校に行った経験もなく、なにかを教わるということをしたこともない。この国はどんなところなのか、幽魔とはなんなのか。知りたい、知りたい……。

 レナの好奇心は膨らむばかりで、だが、レナにはそういう知り合いがいなかった。

 フレットはレナを見て、にこりと笑った。

「そろそろ休憩にしていいよ。お昼もまだ食べてないでしょ?」

 わかった。そう言ってから、レナはあることを思いついた。

「あのさ、フレット」

 きょとん、と。タルト生地を練る手を止めて、フレットはレナを見る。

「私、まだ知らないことばっかりだし、もっと知りたいことがたくさんあって。……でも、学校には行けないし、教えてくれる人も周りにいなくって……」

 フレット、そういう知り合いいる?

 レナの質問に、良い答えを返せそうではあった。

 フレットには、大学准教授をしている知り合い……というより、友人がいた。彼ならば、レナが知りたいことを親切に教えてあげることもできるだろう。

 できるだろうが……。

 彼の人となりを思い出して、少し苦笑する。だが、フレットには他につてがない。それに、レナがせっかく「知りたい」と思っているのだ。それを叶えてやりたかった。

 そうだ、と。フレットは思う。

「レナ、ガトーショコラとチーズケーキを箱に詰めて。ちょっと行ってきてほしいところがあるんだ」

 今度は、レナがきょとんとする番だった。いいけど、と戸惑いながら言う。

「レイキッド、ジェイクのところにレナを連れて行ってくれないかな」

「え、いいよー」

 話が進んでいるらしい。レナはケーキの箱を組み立ててから、その中にガトーショコラとチーズケーキを詰めた。箱を閉めると、レイキッドが顔を出す。

「じゃあ、行こっか」

「う、うん。でも、ジェイクって?」

 厨房から、フレットが笑いながら言った。

「大学で先生をしてる、魔術師だよ」


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