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 オレンジロードには1つ、使われていない建物が存在する。

 蔦が壁を這うように茂った、ほぼ廃屋のようなその建物のドアを、フレットは慣れたように開けた。

 その先は、真っ黒な通路が伸びていた。暗いわけでもなく、ただフラットに黒いその通路を超え、フレットはその先の扉を開けた。

 そこに広がっていたのは、広い部屋だった。広いはずなのに、雑多に置かれた本や機械等で狭く感じる。溜息を吐いて、フレットは後ろ手に扉を閉めた。

「ジェイクー、ちょっと頼みたいことがあるんだけどー!」

 一歩進みながら、フレットはその部屋に声を響かせる。声に反応しひょっこりと顔を出したのは、1人の少年だった。

「ああ、フレットさん。すみません、今准教授は講義中でして」

 長い髪を1つに縛り、丸い瓶の底のような眼鏡をしている彼は、エルヴィス。この部屋の持ち主であるジェイクの助手を務めている。少年のように見えるが、もう20を超えているというのは本人談だ。

「講義中? そんなこと、1つも話してなかったのに……参ったな」

 右手に持った白い箱をデスクに置き、フレットは腕を組む。エルヴィスはあははと笑って、頬を人差し指で掻いた。

「事件ですか?」

 エルヴィスの言葉に、フレットは「うん」と頷いた。エルヴィスはえへんと胸を張ると、

「これでも僕は准教授に認められ、このラボに入ることを許された人間なのです。幽魔の解析なんて、お茶の子さいさいですよ!」

 自信満々にそう言ってのけた。

『あまりそいつに期待するなよ。助手とはいえまだまだ未熟な魔術師だ』

 いつだったか、ジェイクがそう言っていたとを思い出す。フレットは苦笑いしながら、ポケットから袋に入った試験管を取り出した。

「これなんだけど、解析できるかな」

 試験管を受け取り、エルヴィスは「ほほう」と中身を見た。丸眼鏡をくいと指で押し上げると、瞳を輝かせた。

「人間の血液も混入していますね。ですがお任せください! この程度であれば解析に問題はありませんとも!」

 にこにこと笑い、彼は部屋に置かれた1つの機械の前に立った。手慣れた様子で試験管の中身を機械にセットする様子は、フレットから見れば頼もしいことこの上ない。

 程なくして、機械が動き出す低い音が聞こえ出した。よし、と。エルヴィスが頷きながら呟いた。

「少々時間がかかります。コーヒーでも飲みながらお待ちください」

 言って、彼はコーヒーメーカーの前に立った。紙コップをセットして、コーヒーができるまでの間に紙コップのホルダーを用意する。まるで実験をするときのようにテキパキとした動きだ。ジェイクが助手を任せるだけある。

 出来上がったコーヒーをフレットに差し出し、エルヴィスは「どうぞ」とにっこり微笑んだ。ありがとう、とフレットはそれを受け取る。

「それにしても、フレットさんはすごいです。幽魔と戦うことを仕事にしているなんて……僕には真似できっこないです」

 この通り、臆病ですから。

 苦笑を浮かべながら、エルヴィスは言う。フレットは彼を見て、「そんなことないよ」と同じように苦笑を浮かべた。

「君だって、あのジェイクの助手をしているんだからすごいよ」

「いえいえ、まだ未熟な身ですから」

 謙遜なのか、それとも自虐なのか。エルヴィスは苦笑いで答えた。片手に持ったコップの中身を一口飲んで、ぐっと眉をしかめる。苦かったらしい。

「クッキーか何か持ってくればよかったね。次からそうする」

「い、いえいえこのくらい! 僕ももう20の大人ですから!」

 強がって、彼はコップの中身を一気に飲み干す。強がらなくてもいいのにな。フレットは苦笑いでそれを見守った。

 

 しばらくして、解析が終わった。

 機械から吐き出された紙を見て、エルヴィスは「ううん?」と首を傾げた。丸い眼鏡を押し上げて、もう一度文字列を目でたどり直す。

「どうかした?」

 フレットがその紙を覗き込んで言う。印字された文字は何やら難解な言葉を構成しており、フレットはそれを見て同じように首をかしげる。

「ううん……幽魔、だと思うんですけど……」

 自信なさげにエルヴィスが言う。「どういうこと?」とフレットが聞くと、エルヴィスは紙を一度置いた。

「どうしてこんな反応出ちゃったのかな……ああ! 人間の血液が混ざってたからだ! きっとそうに違いない!」

 1人でうんうん頷いているが、さっぱりわからない。フレットはため息を吐いてから「エルヴィスくん」と名を呼んだ。

「俺にもわかるように説明して?」

 はっとした様子で、エルヴィスはフレットを見る。わざとらしくエルヴィスは咳払いをすると、

「反応的に、人間の血液と幽魔の血液が混ざっちゃってるみたいでして。でも、採取されていた血液には幽魔と人間どちらの血液もあったでしょう? なので、ちょっと機械がエラー吐いちゃったというか、勘違いしちゃったみたいなんです」

 でも、大丈夫です。そうエルヴィスは胸を張る。

「これは幽魔です。ここに書いてあるのがコードなので、コピーをお渡ししますね!」

 言って、結果が印字された紙を持ってどこかに走っていく。程なくして、コピー機が動く音が聞こえてきた。1枚だけのコピーはすぐに終わり、紙を手渡される。

「こちらをどうぞ! ……次から、幽魔の血は人間の血と混ぜないほうがいいかもです」

「わかった、気をつけるよ」

 紙を受け取り、エルヴィスに笑いかける。フレットは「あ、そうだ」と思い出したように言うと、テーブルの上に置いた箱を指差した。

「ケーキが2つはいってる。エルヴィスくん、チーズケーキが好きだったよね? お礼だから、食べていいよ」

 途端に、エルヴィスの顔がぱっと明るくなった。師匠に似て、彼も甘いものが好きらしい。「ありがとうございます」と笑顔で言うエルヴィスに、フレットも笑顔を返した。

「それじゃあ、また。何かあったらくるね」

「はい! お待ちしております!」

 笑顔で見送るエルヴィスに手を振って、フレットはもと来た扉から外へと出る。

 夜になったオレンジロードは何件か明かりがついている店があったが、殆どは店じまいを終えた後だった。空を見上げれば、星空が見えた。この辺りは明るいから星はほとんど見えないが、それでも綺麗に晴れた星空は美しい。

 息を短く吐き出して、フレットは人の減ったオレンジロードを歩き出した。

 

 

「ううん……でもこれ、本当に幽魔かなあ」

 エルヴィスがつぶやく。

 フレットを見送った後、エルヴィスは紙を見つめて唸っていた。どうも、幽魔と断言するにはおかしい気がしてならない。

「えー、でもフレットさんには断言しちゃったしなあ、どうしよう」

「なんだ、また不明確なデータを渡したのかお前は」

 ひゃあ、とエルヴィスが妙な声を上げた。

 エルヴィスの背後に、青年が立っていた。エルヴィスより頭1つ背の高い彼は、ため息を吐いてエルヴィスを見ていた。

 冴えた月のような銀髪を揺らし、彼はエルヴィスの手から紙をひったくる。

「え、あの、その!」

「……なんだこのデータは。お前、何をしでかした」

 データを見た瞬間、コバルトブルーの瞳が細められた。「何もしてないですよぅ!」と慌てて弁明するエルヴィスを、やや呆れた目で見る。

「ここまで人間と幽魔の血液が混ざり合うなんてそうそうないぞ。……これじゃあ人間とも幽魔とも言えない」

 えっ。

 途端に青ざめるエルヴィスを尻目に、彼はコーヒーを淹れる。背後でわたわたと慌てるエルヴィスの気配を感じていたが、あえて無視した。

 窓の外では、ぱらぱらと雨が降り始めていた。それは次第に音を大きくしていく。ああ、また雨か。彼は窓の外を見て、またため息を吐いた。


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