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 ゆったりと流れる時間が心地良い。

 渋滞もなく、流れに乗れていない車も無く、赤色のクライスラーはビルの谷間を順調に進む。スピードに乗れている、その感覚が伝わってくる。

 テールランプが目の端に尾を引いて去っていく。車のスピーカーからは、相変わらずブリトニー・スピアーズばかりが流れていた。

『Walk On By』が流れ出す。車内だけ、世界から取り残されて、時間がゆっくりと流れている。そんな錯覚さえする夜だった。

 

 Every where I turn I see your face

 振り返れば、いつだって貴方がいる。

 

 Reminding me of a higher place

 それだけで心が舞い上がる。

 

 Every time you smile Angels cry

 貴方が微笑めば、天使も泣き出す。

 

 Every time you walk on by

 貴方が側を通るたびに。



 それから。

 紙コップの誘いから、2週間。「また誘っていいか?」とは言われたものの、それからは夕食の誘いをされることもなく、至って平和に日々は過ぎていった。

 気づけばカレンダーは1枚捲られ、11月。冬の気配はますます濃くなっていき、ジャケットだけでは肌寒くなってきた。薄手のコートがなければ厳しいだろう。

 仕事が一段落つき、休憩を入れようとしたところで、紅獅の目の前に何かが置かれた。

 赤いホルダーに入った紙コップのコーヒー。背後を過ぎていった気配を追うと、同じように紙コップを持った尾形がいた。

「ありがとう」

 その背中に、紅獅が声をかける。尾形はゆっくりと振り返ると。

 とんとん。

 そう、自分の持った紙コップを軽く指で叩いて見せた。

 たったそれだけのジェスチャー。紅獅は一瞬首をかしげて、自分の目の前に置かれた「それ」を見つめた。

 ゆっくりと、紙コップをホルダーから出す。コーヒーをこぼさないよう、慎重に。

 白い紙コップには、黒いマジックペンで文字が書かれていた。

『週末、空いてる?』

 尾形を見る。尾形は紅獅と目が合うと、下手くそな微笑みを浮かべて肩をすくめてみせた。「今度はちゃんと言ったからな」、なんて言いたげな顔。

 こんなの、言ったうちに入るか。

 溜息を吐いて、紅獅は紙コップをホルダーに戻した。

 週末は映画を見ようと思っていたくらいだ。尾形が見たいなら、一緒に……。

 そう思ったところで、はっとして紅獅はスマートフォンを取り出した。行きつけの映画館のサイトをブックマークから呼び出し、上映予定の映画を見る。

『ボヘミアン・ラプソディ』

 尾形の車の中では、ずっと洋楽が流れていた。もしかしたら、Queenも好きかもしれない。

 コーヒーを一口。いつもと変わらない味がする。すこしだけ落ち着いてから、紅獅はこの返答をどうやって返すか考え始めた。



 結局。

 1時間経ってから、同じ方法で返すことにした。

 こないだと同じように、紙コップをコーヒーメーカーにセットする前に、メッセージを書く。『映画を見に行かないか?』、そう書いて。

 コーヒーが注がれた紙コップをホルダーにセット、そうしてから尾形のデスクに置く。……少しだけ、前より書類の山が減っている気がする。

「さんきゅ」

 こちらを振り向かないで尾形がいうので、紅獅は尾形の目の前の紙コップをつついて見せた。ちら、と。モカブラウンの瞳が紅獅を見る。紅獅は一瞥しただけで、そこから去った。

 ……なんとなく、気恥ずかしかった。まるで青春映画か、恋愛映画のワンシーンを再現するような行動だ。紙コップにメッセージ、なんて映画は知らなかったが。

 デスクに戻ると、尾形は紙コップをホルダーから外していた。こちらをちらりと見てくる。

 ホルダーに戻して、中身を飲む。そうしながら、尾形は片手で「OK」のサインをしてみせた。どうやら、映画を見ることに承諾してくれたらしい。

 休憩がてら、チケットをとっておくことにする。話題の映画だから、早めに席を取っておかないとすぐに満席になってしまうだろう。

 こうして、休日の予定が決まった。

 

 決まったのはいいのだが。

 前日、金曜日。いつものスターバックスで、紅獅は頭を抱えていた。

「どうしたんだ、そんな顔して」

 そう隣に座って来たのは、トレーに紙コップとドーナツ、それにザットハルテを乗せた久留須だった。……また甘い物のコンボだ、それを昼飯とは言わない。

「久留須か……また昼食にそんなものを」

「うっ、いいだろ。頭を使うから甘いものがほしくなるんだ」

 言って、ドーナツをぱくりと食べる。知っている、紙コップの中身はキャラメルマキアートだ。

「で、どうしたんだ? シニカルな男がキザな男になった件か?」

 うっ。そう言葉を詰まらせるのは、今度は紅獅の番だ。にや、と久留須が笑う。

「やっぱり。また紙コップのメッセージか? 今度はどうした?」

「……週末空いてるかと聞かれたから、映画でも見に行かないかと」

 サンドイッチを食べつつ、紅獅が言う。ぽかん、と、久留須は目を丸くした。

「……そこ、『空いている』じゃなくて、誘い返したのか?」

 思わずサンドイッチを落としそうになった。

 そうだ。『空いているか?』を聞かれたのだから、『空いている』でもよかったはずだ。これはつまり、久留須の言う通り「誘い返した」ことになっている。

 くく、と。久留須が笑った。

「いいじゃないか。10年も同僚やってるのに、なんだか付き合いが希薄すぎると思っていたんだ。これを期に距離を詰めれば、ワーカーホリックだって治るかもしれないぞ」

「……そのくらい、単純であってくれればいいんだが」

 そう言ったところで、遠くに尾形の姿が見えた。会社の1階、ロビー隣に作られたスターバックスからは、会社の外がよく見える。手にはコンビニの袋。ここからではよく見えないが、どうせ中身はコンビニのおにぎりか、ゼリー飲料の類だ。

「……また昼食片手に仕事をするつもりか」

 呟いて、紅獅は残り少しのサンドイッチを一気に口に押し込んだ。休憩時間くらい仕事をするな、そうお小言を言いに行くのだ。口の中身を飲み込んでから、コーヒーの入った紙コップを持って立ち上がった。

「すまない、お先する。お前はゆっくり食べてくれ」

「そうする」

 ひらひらと掌を振って、久留須は紅獅を見送った。

 

「……やれやれ、この立ち回りも楽じゃないんだがなあ」

 ドーナツを口に入れながら、スマートフォンを操作する。LINEのアプリを開いてから、久留須はメッセージを打ち込んだ。

『紅獅がそっち行った。どうせならデートの約束、もう少し詰めとけ』

 既読がついた。返信は無し。スタンプの1つでも使えばいいのに、愛想のない同僚と来たら。……愛想どころかデリカシーもない。自分との関係をもう少し考えたらどうなんだ、こいつ。

「ま、いいさ」

 呟いてみせる。3年も前に終わった関係なんて、今更どうこう言うつもりはない。

 一度好きになった男だ。その男が好きになった奴なら、応援だってしてやる。

 でも、その前に。

 目の前の甘いものを片付けるのが先だ。久留須はザットハルテにフォークを突き立てて、舌先の幸福を存分に味わった。

 

 オフィスに戻ると、予想通り。PCを前にして、尾形が食事をしながら仕事を続けているところだった。

 金髪に脱色された頭を強めに小突く。「いって」と声を上げて、尾形が紅獅を振り向いた。

「んだよ」

「んだよ、じゃない。休憩時間くらい仕事をやめたらどうなんだお前は」

 溜息混じりに言うと、尾形は肩をすくめて見せた。……癪に触るので、もう一度小突く。

「はいはい、わかったよ。ったく、お前はかーちゃんか」

「誰がかーちゃんだ。……まったく。明日は出かけるんだろう?」

 尾形がちらりと紅獅を見る。片手に持ったおにぎりを口に押し込むと、そのまま飲み込んだ。こいつはいつも、一口が大きい。

「映画、何見に行くの?」

 ペットボトルのミネラルウォーターを飲みながら、尾形は言う。ああ、と紅獅は思い出すように言った。

「ボヘミアン・ラプソディ、洋楽が好きならいいかと思って。席はもうとったから、11:00からの上映でよかったか?」

 尾形の眉が若干しかめられた。……まさか、Queenは苦手だったのだろうか。

「……いいぜ、それで」

 しかし、尾形はうなずいた。

「……Queen、苦手だったか」

「いーや、Queen自体に恨みはねえよ。……Queenが好きな奴にちょっと、嫌な思い出があるだけ」

 地雷を踏み抜いた。

 しまった、という顔を押し込む。やはり、聞いてから映画を決めるべきだった。……失態だ。

「いいよ、お前だって見たかったんだろ? ……気にすんなよ」

「……なら、いいが」

 謝る前に、尾形が「見た後飯でも食う?」と話題を変えてしまったから、謝る隙すらなかった。頷くと、「なら食いたいもん決めといて」と、メニューの決定権を押し付けられる。

「お前は何かないのか」

「俺、あんま食いたいもんとかねえから」

 食に対して興味関心が薄いらしい。よく今まで、一人暮らしで生きてこれたものだ。久留須くらいたくましい興味関心を持ってほしい。

「わかった、いくつかピックアップしておく。……明日、どこで?」

「準備できたら俺んち来てくれ。車出す」

 俺が誘ったんだし。

 

 それで、この会話は終了した。

 金曜日の昼頃。それからは、大した会話もなく、お互い解散してしまった。

 家が隣なのに、隣からは大きな物音1つ無く。そういえば、私服の尾形なんて見たことがない、とふと思うほどには、こちらは明日に対して考えているというのに。

 あいつは何を思って、自分を誘ったのだろう?

 

 風呂上がり。髪を乾かしながら、そう思った。

 


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