アインレーラの策略

「アリアドネー!」

 元気よく戸を開けて入ってきたのは、ネモだ。アリアドネが来てから、用もなくアーベントの店を訪れるのが日課となっていた。

 ネモはきょろきょろと店の中を見回すと、テーブルに突っ伏して寝ているアーベントを見つけた。「アーベント!」と名前を呼びながら、ゆさゆさと揺らす。

「アーベント、おっきろー! 朝だぞー!」

 うぐ、と。うめきながら、アーベントは目を覚ます。むくりと起きたアーベントの背中をばんばんとたたきながら、ネモは言った。

「アリアドネは? どこー?」

 眠そうな目をこすりながら、アーベントはくわわと大きくあくびをする。どうやら、座って考え事をしているうちに寝てしまっていたらしい。寝台で寝なかったからか、背中がひどく痛む。

 窓から差し込む明るい日差しに目を細めて、ネモを見た。

「……アリアドネなら、帰ったよ」

 帰った?

 ネモの言葉に、うなずく。立ち上がって、昨日のままのコップや茶器を片付けながら、

「……親のとこに」

 そう、静かに言った。


 青い葉の匂いが満ちている。吹き抜ける風は冷たいが、冬の身を切るような寒さはなかった。
 馬に乗りながら、アリアドネは辺りを見回していた。馬は表の通りを通らず、アーベントと共によく行っていた森の、チェルルの町を挟んで反対側の森を歩いていた。湖のある森は空気が湿っていて、水の匂いがする。
 アリアドネは目の前を見る。前を行く馬には、アインレーラが乗っていた。美しい金髪が、風に揺れている。人の歩幅にあわせてゆっくりと歩く馬の横には、アインレーラの右腕であるニアと、アリアドネの教育係であるルーベラが並んで歩いていた。他にも2頭ほど、騎士の乗った馬がいる。
 この森を抜けると、旧都であるインヴェルノにたどり着く。ヒューレの森に城が移る前に城があった場所で、今は騎士団が領地として治めている。チェルルから道は繋がっているものの、森を通ったほうが早い。そこまで密集した森でもないため、騎士団とヒューレであれば森を超えるのも容易い、という判断だった。
 陽の光を葉が遮る。森の中は少し寒いが、春になったからか、そこまで苦ではなかった。馬の蹄が、枯れ木を踏む。さくさくと草を踏んでいく音が小気味いい。
 チェルルから、もうだいぶ来てしまったのだろうか。後ろを振り向きたい衝動をやり過ごしながら、アリアドネは考える。今頃アーベントは起きて、店を開いているのだろう。ネモとモナと仲良く、暮らしてくれるだろうか。
『いつでも戻ってこい』
 アーベントの声が、耳に蘇る。
『待ってる』
 アーベントは、チェルルで待っていてくれるだろう。あの人のことだから、100年でも。
 ――――でもきっと、帰れない。
 ただ、アリアドネはうつむいた。

 チェルルの町から森に入り、すでに半ばほどまで来ていた。
 騎士団の駐屯地である旧都まで、もう少し。アインレーラの右腕であるニアは、周囲を警戒しつつ、森の中を歩いていた。
 アインレーラは、涼しい顔で馬に乗っている。行方不明になった婚約者を探しに来た、といえば聞こえはいいが、実際には、国王から半ば脅しのように命令されて来た。
 騎士団長であるアインレーラの父、クロムハウザーはもう長くはない。もう2年も病床についており、まだ19歳であるアインレーラが騎士団長の代理を務めている。団長となるのも、時間の問題だろう。
 旧都に近付いたところで、ニアは複数の気配を感じて立ち止まった。それを見て、アインレーラは馬を止める。ニアの視線に、アインレーラは頷いた。
「お客様のようです」
 涼やかに言って、アインレーラは馬を降りる。馬から数歩前に出たところで、にこやかに言った。
「いるのでしょう? 出てきてください」
 声が、森の中に吸い込まれていく。出てきたのは、数人の男たちだった。皆髪を布で隠している。おそらく、ヒューレの男たちだ。
「何の御用でしょうか?」
 人数を確認しながら、アインレーラは言う。男たちの数は4人。……ずいぶんと舐められたものだ。
「我々は『空樹の枝』。王家より、ヒューレの森を取り戻す者だ」
 男のうちの1人がそう語る。見た目は若いが、年齢は自分たちより遥か上なのだろう。彼はろくに手入れもされていない、なまくらの剣を引き抜くと、
「奪え!!」
 そう叫んだ。
 男たちは剣を抜き、アリアドネの乗る馬へと駆けていく。それを遮るように、騎士たちが立ちはだかった。剣と剣のぶつかり合う、鋭い音が鳴る。
 ニアはアリアドネの馬を下がらせると、剣を抜いた。
「王女を襲う不届き者め! 我が剣に誓い、お護りする!」
 目の前で、戦闘が繰り広げられる、アリアドネはそれを、怯えと混乱の混ざる瞳で見ていた。その馬に駆け寄ってきたのは、ルーベラだ。
「アリアドネ様、こちらへ」
 言って、馬を引く。空樹の枝から逃げるように、彼女は来た方向とは逆へ馬を導いた。アインレーラはそれを止めることもなく、襲いかかってきた男のみぞおちに柄を叩き込む。ぐ、と。男はうめいてその場に倒れる。
 騎士団と男たちでは、いくら生きている年月が長くとも、実力には差がある。瞬く間に、騎士団は空樹の枝たちを退けていた。
「さて、まだやりますか?」
 にこやかに、アインレーラは言う。その額には汗1つ浮かんではいない。
 ち、と。男が舌を打つ。ローシャ、と。名を呼ぶ声がした。
「一旦、退こう」
 ローシャと呼ばれた男は頷いて、アインレーラを見る。
「覚えていろ、我々は王家への恨みを忘れない!」
 そう言って、彼らは森の中へと消えた。後には、騎士団たちが残る。
 アインレーラはアリアドネたちが去った方向を見て、静かに言った。
「……アリアドネ第五王女は、『空樹の枝』たちが殺害。この世を去りました」
 騎士たちは、皆頷く。それを見て、アインレーラはにこやかに言った。
「帰りましょう」


 西の空へと太陽が沈みきったのを見て、アーベントは店を閉じた。
 店の前に干した薬草をしまい、家の中に入れる。夕飯の前に茶でも飲もうと、アーベントは炉に鍋をかけた。
 その時だった。
 戸を叩かれる。薬草を閉まったら、店じまいの合図だ。アーベントは布越しに頭を掻いて、戸を開けた。
「おいおい、もう店は……」
 言いかけて、口を閉ざす。
 目の前には、ルーベラが立っていた。髪は乱れているが、表情はどこかほっとしている気がする。
「姉貴、どうして……」
 アインレーラたちと、城へ向かったのでは。
 そう思ったところで、ルーベラの影からひょこりと、誰かが顔を出した。
「アーベント!」
 勢いよく抱きつかれ、身体がぐらりと傾く。なんとか体勢を立て直して、アーベントは胸に埋まっている彼女を見た。
「アーベント、帰りました」
 ぼろぼろと涙をこぼして言うのは、アリアドネだ。アーベントはアリアドネを見て、ふ、と微笑んだ。
「……ずいぶんと、早かったじゃねえか」
 アリアドネはアーベントを見て、しっかりと頷いた。

 


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