ホウ、と梟の鳴く声が聞こえた。
すっかりと人々が寝静まった頃。人どころか家や町でさえも眠ってしまったような静けさが、チェルルの町を覆っていた。闇の中に漂う静寂は心地よく、ランプの前で、自分も寝入ってしまいそうだ。
アーベントはそっと、隣にある寝室を覗く。そこに置かれた寝台で、アリアドネはぐっすりと眠っていた。心地良さそうに眠っている傍らには、町長から借りた本が置かれている。そこには、エルビオについてのことが書かれていた。
すっかりと、アリアドネの心はエルビオに旅立っているらしい。……無理もない。王宮にいた頃は、行きたい場所に行くということができなかっただろう。金もある、時間もある。なのに、やりたいことがままならない。それは、金がなくてままならないのとどう違うだろう? 辛かったはずだ。
ランプに灯りがついている、本を読んだまま寝てしまったのだろう。そっと本を机に戻し、ランプの灯りを消す。布団をかけ直してやってから、アーベントは寝室のドアを閉めた。
エルビオに行っている間、自分がいなくても町の人々が薬草に困らないようにしてやりたい。そう思い、よく皆が必要とする薬草をわかりやすいようにしておくつもりだった。仕立て屋の所の婆さんの咳止めや、馬屋の爺さんの膝の薬。金は別にいいが、町の人々が困ることは避けたかった。
「ま、あんだけ恩をもらったしな」
ヒューレ。それを「木人」と呼び、忌み嫌う人々も少なくない。だが、この町の人々は自分とアリアドネを受け入れ、いてもいいと言ってくれた。宴まで開いて。
100年。その間ずっと生きてきて、そんな町はここだけだった。その恩を、きっと一生忘れない。
さて、と作業を再開しようとしたところで、アーベントの耳が何かを捉えた。
馬の嘶き。蹄の音。これは。
戸を向いたところで、戸が叩かれる音がした。こんな夜更けに現れる男を、数人ほどしかアーベントは知らない。……いや、数人も知っているのは異常か。
「入りな」
そう言って入ってきたのは、鎧を着た男。……騎士団のニアだ。
「夜分遅く、申し訳ない。……起きていましたか」
「まあな。……焦ってんな」
アーベントが言う。ニアはただ頭を下げると、告げた。
「早急に、伝えたいことが」
ランプの灯りの前で、モナは1つあくびを漏らした。
針仕事を黙々と続けていたら、いつの間にかこんな時間になっていたらしい。隣の部屋では、ネモと母親がすっかりと眠っている。私としたことが、また夜更かししちまったよ。なんて、呟いても諌める声はなかった。
数年前、まだ夫が生きていた頃は、よく怒られたものだった。女が夜更けまで起きていることはない、と布団に追い立てられたものだ。懐かしく感じながら、モナは針と布を置いた。そろそろ眠ろう。
ランプを消そうとしたところで、モナの耳は何かを聞いた。馬の嘶く声と、蹄の音。こんな夜更けに、いったい誰だろう? そっと、モナは戸を開いた。
馬はアーベントの家の前に行儀よく立っていた。その戸の中に、鎧を着た男が入っていく。見間違いでなければ、それは騎士団の鎧に違いなかった。
アーベントの家に、いったい何の用で?
モナはランプを手に取ると、そっと家から抜け出した。足音を忍ばせて、アーベントの家の前に行く。身を潜めていると、声が聞こえてきた。
「……ま、あの一件で見逃してくれるとも思っちゃいねえ。が、早かったな」
アーベントの声だ。見逃してくれる? 何を言っているのだろう。
「王は第五王女であるアリアドネ様を早急に連れ戻したいようです。……夏至に延期した王国祭に間に合わせたいのでしょう」
ランプを落としそうになるのを、どうにか堪える。
ただの少女ではないことは、わかっていた。どこかの育ちのいい娘さんを拾ったか、匿ったか。そうだとは思っていたが、まさか本物の王女様だとは。
「今度は王国軍が、この町に向かいます。どうか、お逃げを」
「逃げたいのは山々なんだがな。……町の人間を放って自分だけ逃げられるほど、まだ男を捨てちゃいねえさ」
煙草に火をつける、ジジ、という音すら聞こえてくる。……静寂が、あたりを包んでいる。
「お前だって思ってるだろう? アーベントとアリアドネはどっか行った、で見逃してくれると思わない。あの王のことだ。チェルルを火の海にすることだって考えるだろう」
そうですが。鎧の男がそう言う気配がした。
チェルルが火の海になる。
生まれてこの方、戦を経験したことのないモナだ。それがどのようなことなのか、理解したようでわかっていない。しかし、アーベントはどこか、知っているような口ぶりだった。
「……アリアドネと、エルビオに行くと話をしていたところなんだ」
エルビオに?
男が言うと、アーベントは「ああ」と頷いた。
「アリアドネを頼んでいいか。俺はこの町に残る」
どくん、と。モナの胸が大きく鳴るのがわかった。アーベントや、鎧の男に聞こえそうなほど。
「アリアドネはエルビオに行った。そう言えば、王はエルビオを目指す。この町も、俺さえいりゃ被害は”最小限”で済むさ」
言って、アーベントは笑った。
「この首ひとつで、どれだけの人間が救えるか。……いっちょやってみよう」
鎧の男が憤ったような、だが諦めのような。深く長い溜息をついたのが聞こえた。
「では、私はこれで」
そう聞こえて、モナは慌てて家と家の間に身を隠した。ランプを消したところで、男は外に出てくる。モナに気付かずに、男は馬に乗って颯爽と町を出てしまった。
後には、まだ眠らないアーベントと、身を隠したモナが取り残される。
「――――」
アーベントが何かを言った。それは、強く吹いた風の音にかき消されて、聞こえなかった。
馬の嘶きがいくつも重なって聞こえた。
昇る朝日、その柔らかな光の下に、王国軍のものである緑の旗がいくつも見えた。はためくそれを尻目に、シニセスは馬に乗り込む。
「ご無事の帰還を」
バルザックが頭を下げる。ふ、とシニセスは笑った。
「他国に戦をしかけるわけでもない。……アリアドネを連れて帰ろう」
鎧を着るのは、実に100年ぶり。ヒューレどもから森を奪い、玉座を得たとき以来着る機会はなかったものだ。
これからは何度も着ることになるだろう。他国に戦をしかけ、その前に、ヒューレの残党共も狩ってしまいたい。そう考えると、自然と笑みがこぼれていく。
「さあ、行こうか」
シニセスがそう言うと、一斉に騎馬たちが行進を始める。表向きには、チェルルの町に出たという山賊の残党を狩るための行軍だ。城下町の民は、何の疑いもなく送り出すだろう。民を守る王国軍を讃えるだろう。
クク、と。再びシニセスの唇から笑みがこぼれた。
「なあ、おいあれ」
傘を少し上げながら、仲間の1人が声を上げた。
城下町、サフィリア。そこには、数人のヒューレが存在した。……空樹の枝の男たちだ。
ローシャは指で示されたものを、路地の影から確認した。……国王軍だ。
「チェルルに出た山賊の残党を狩るんだってよ。……おい、チェルルって」
ローシャが頷く。第五王女、アリアドネがいる町。そして何よりも、自分たちの仲間であるヒューレ、アーベントが住む町。
アーベントはアリアドネを渡すことを拒んだ上、アリアドネを奪い返した男だ。……だがそれに、少しだけほっとしている自分がいたことも、事実だった。
知っている。彼女が何の罪もない子供だということくらい。聡明で、だが純真無垢な彼女。
おそらく、あの行軍はアリアドネを……。
「どうする、アーベントがいるんだろう」
助けに行かないのか。そう問う仲間に、ローシャは言った。
「……俺達には何もできない」
そうするしかない。ローシャの一言に、仲間たちは押し黙るしかなかった。
たった数人だ。アーベントを逃がすどころか、皆殺しにされる未来しか見えない。だがアーベントには、おそらく騎士団がついている。アーベントは、自分たちよりも前にこのことを知っているだろう。
「アーベントを信じるしか無い」
死ぬなよ、アーベント。
呟いた言葉は、馬の嘶きにかき消されて消えた。
「それでは、アーベントは町に残るのですか?」
薬草を抱えたアリアドネに、アーベントは頷いた。
「急病、とあっちゃあな。わりいが、アリアドネは先に行っててくれねえか? 途中の馬宿で追いつくから」
少しだけアリアドネが不安そうな顔をした。その横から、ニアがいつもの笑顔で「お任せください」と頭を下げた。
「私がお守りいたします。どうかご安心を」
「ええ。……心配は、していないのですが」
アリアドネの顔色はすぐれない。……幼いと言っても、聡明な彼女だ。何かを悟っていても、おかしくはない。
アーベントは頭に巻いた布から、簪を引き抜いた。しゃら、と。小さな簪が鳴る。
「これを預けておく」
それを、アリアドネの小さな手のひらに乗せた。「これは?」と、アリアドネはアーベントを見上げる。
「旅のお守りだ。そいつがお前を守ってくれる」
簪を握らせ、アーベントは微笑む。その表情でようやく不安が解けたのか、アリアドネは簪を見つめた。
「いつも、大事にしているものでしょう? 預かってもいいのですか?」
「ああ。お前だから預けるんだ」
アリアドネが簪をぎゅっと握る。「ありがとうございます」と笑うのに、アーベントは笑って頷いた。
ニアはそれが、形見になることを、知っていた。
「では、後のことはお任せを」
「ああ、よろしく頼んだぜ」
荷馬車に荷を積み、アリアドネを乗せたあと、アーベントはニアにふっと笑った。
夏の気配を滲ませ始めた風が、アーベントの髪の毛を舞い上げる。荷馬車から顔を出したアリアドネが、アーベントに笑いかけた。
「いってきます! 早く追い付いてくださいね!」
無邪気に、彼女は手を振る。きっとエルビオの港町が楽しみなのだ。叫びの海を見たとき、アリアドネはどんな顔をするのだろう。少女の頬が赤く染まり、笑みに変わるその瞬間を、見てみたかった。
手を振り、アリアドネを見送る。荷馬車が音を立てて去っていくのを、アーベントはただ見つめていた。
「……さて」
振り向く。
国王軍がたどり着くまで、もう幾ばくもない。せめて皆を逃がせるように、アーベントは町長の家へと向かった。
本当に、それから数刻だった。
緑色の旗が見えた。国王軍の旗。思ったよりも数が多いな、とアーベントは舌を打つ。行儀よく隊列を組む蹄の音。鎧や武器が立てる金属の音。それらが近付いてくるのが嫌でもわかる。
国王軍が、やってきた。
町の人々の表情が曇る。アーベントは、その一行が門を越えるのを、ただ睨むように見つめていた。
何か言っている。恐らくは名乗り口上。アーベントは服の中に種の入った袋を忍ばせて、そっと近付いた。
「この中に、アーベントというヒューレがいるはずだ! 出せ!」
人々が顔を見合わせる。そして視線が集まるのを、ただ感じていた。
「貴様か」
知らない男、おそらくは将軍か何かだろう。アーベントはその男を見上げると、頭の布を取った。
「ああ、俺だ。ただのヒューレに、何の用だ」
クク、と。
聞いた覚えのある声が、笑うのを聞いた。
一匹の馬が近付いてくる。それに合わせ、騎馬たちが道を開けた。その馬は一段と豪華に飾られ、嫌でも、乗っているのが誰なのかを示している。
だが、そんなもの見なくとも、顔を見ればわかった。アーベントは、その男を知っている。
「……あのとき森の外れで死にかけていた男が、偉くなったものだな、第四王子シニセス。……いや、今は国王だったか」
に、と。その男は若葉色に変わったその髪を風に揺らしながら笑った。
「あのとき偉そうに講釈を述べていた男が、落ちたものだな。アーベント」
ああ、あのときと変わらない。森の中で出会い、別れたときから何一つ。
憎たらしい顔も。
声も。
語る言葉も。
お互いにお互いを睨み合ったあと、シニセスはふわりと笑った。
「我が娘がこちらに来ていると聞いた。アーベント、お前はそれを大事に保護してくれたというではないか。私はそれを嬉しく思う。丁重に礼をしたい。……そして、もはや保護する必要はない。城に返してもらおうか」
いるのだろう? そう聞くシニセスに、アーベントはゆっくりと首を振った。
「悪いが、いねえよ。他をあたりな」
「そんな見え透いた嘘が通じるとでも?」
シニセスはアーベントから目を離し、周りに集まっている町人に目を向けた。目が合った瞬間、人々は目をそらす。……知っているのだろう。アリアドネと、その居場所を。
「仕方あるまい。第五王女を隠すのであれば、それは王家に対する謀反と取る」
すらり、と。細身の剣が抜かれた。低くなり始めた青い空を映し、それは光る。
青い空だと思った。本当に、抜けそうなほど綺麗で、近い空。
「言う気はないのだな? アーベント」
首元に、冷たい刃の感覚があった。口元から、自然と笑みがこぼれ落ちる。
「もちろん」
エアル、今、行くよ。
剣が、振られた。
がたがたと荷馬車は走り、いつの間にか森の中へと入っていた。
滅多に人が入らないためか、道と言えるのかすら怪しい道を走っている。時折、車輪が石を噛んで跳ねた。両側を流れていく木々は鬱蒼と繁り、明るく青い空は遠い。
おかしい。そう、荷馬車の中でアリアドネは首をかしげた。
エルビオまで続く街道は、森の中は通らない。両側は畑で、開けているはずだ。それに街道なら、ここまで人が通らないということはないだろう。これは、何かが違っている。
「ニア様? 道を間違っているのではありませんか?」
ちらりと、荷馬車にかけられた幕をめくり、馬を走らせるニアを見る。2頭ついた馬のうち1頭を任されているニアは、にこやかに「いいえ」と首を振った。
「正しい道を走っております、アリアドネ様」
「ですが……エルビオまでの街道は、森の中を通りません」
地理的に、例え近道だとしても、森の中は通らずともよいはずだった。この馬車は、知らない場所へ行こうとしている。
「ニア様、何か……ありましたか? 追われているとか……まさか、またお父様が何か」
弾かれたように、アリアドネは背後を見る。
チェルルには、アーベントを残してきてしまった。もしチェルルに追っ手が来たのであれば、アーベントが危ない。
ニアが言葉を次ぐ前に、マントを被った男……もう1頭の馬を任された男が、口を開いた。
「もはや隠し立てすることはできないでしょう。……やはり、敏いお方だ」
その声を、アリアドネは知っていた。
マントが取り払われる。その下にあるのは、眩い金髪だった。
「アインレーラ様……」
見えた顔には、白い包帯が巻かれていた。左目を覆うそれを見て、息を飲む。
「このような格好でお許しください。……今、王国軍がチェルルの町を目指しています。……もしかしたら、もう到着したかもしれません」
王国軍。
その言葉に、アリアドネは言葉を失った。
父親の追手は、もうすぐそこまで来ている。……自分を連れ戻しに。
「アーベント様はそれを食い止めてらっしゃいます。その隙に、アリアドネ様を安全な場所まで送り届けます」
馬を走らせる。がたん、がたん。荷馬車が揺れた。
山賊を町にやった父親のことだ。……チェルルを、あの心優しい人々を、殺してしまうかもしれない。
そしてアーベントも……。
アリアドネはゆっくりと、荷馬車の中で立ち上がった。
「……戻りなさい」
少女の声が、強い覇気を帯びるのを、感じ取った。
ニアが「しかし」と声を上げる。花色の瞳が、光を放った。
「戻りなさい!」
馬が止まった。……いや、アインレーラとニアの手が、自然と馬を止めていた。
アリアドネ様。ニアが、呟くように名を呼ぶ。アインレーラはアリアドネを見上げ、口を開いた。
「……アリアドネ様、これは、貴方を」
「私を思って、ですか?」
すでにその声は少女のものではない。……王家の人間、その声だ。
「私を思うのであれば、民を思いなさい! 私の夫になるのであれば、戻りなさい。民を死なせてはなりません」
森の中に、声が響いた。
「これはネフリティス王国第五王女、アリアドネ・ネフライトとしての命です!」
風が凪いだ。
アインレーラは深く、頭を下げた。少女のアリアドネではなく、王女のアリアドネに。
「御意」
血飛沫が舞った。
青い青い空に、赤い赤い血が舞う。それを、アーベントの空色の瞳が見た。
目の前で倒れる者を見た。
銀色に光る剣は自分ではなく、その人間を切り裂き、鈍く光った。
栗色の髪がばさりと落ちた。その髪は、死んだ亭主が唯一褒めてくれた体の一部だと、彼女はからからと笑って。だが、綺麗に伸ばしていた。
モナが、ふらりと倒れた。
「モナ……?」
唇から、声が漏れる。自分の身体に倒れこんできたモナを受け止め、その顔を見る。
「バカだね、あんた……逃げちまえば、よかったのにさ……」
か細い声が耳に届く。いつもの、快活な声はほど遠い。
「……アリアドネを、守って、おやり……」
あの子にはあんたが必要だよ。
目が、閉じられる。
ずしりと重くなったモナを抱き留め、アーベントは揺れる瞳でその顔を見ていた。土気色に変わっていく顔色。閉じられた瞳。濃く香る、血の臭い。
「……母ちゃん?」
弾かれたように、アーベントは声の方向を見た。そこに、祖母に引き留められながらも、前に出てこようとするネモの姿があった。
「嘘だ、母ちゃん。……母ちゃん!」
起きてよ。
起きろよ。お前の子供が呼んでる。……お前が、死んでどうする。
「ふん。……2度も女に守られるか」
しかし次はそうはいかん。
シニセスの笑い声すら、遠く聞こえた。
「お待ちください!」
シニセスを止めたのは、少女の声だった。
荷馬車から降りてきたのは、町娘と変わらない服装をしたアリアドネだった。人を掻き分け、シニセスの前に出る。その瞬間、アリアドネは動きを止めた。
膝を折ったアーベントが、こちらを見ている。彼の腕には、血を流し動かないモナの姿があった。固く閉じられた瞼は、もう二度と開かないことを暗に示していた。泣き崩れるネモと、その声。濃い、鉄錆のような臭いがする。血の臭いだ。
周りの音が、風景が、人々の姿が。一瞬全てが遠ざかって、再び近づいた。ゆっくりと、アリアドネはシニセスの前に立つ。モナを抱えるアーベントを、守るように。
「……お分かりですか、お父様」
王女の声が響く。王国軍の兵士たちがたじろぐほどに、荷馬車の側に立つ騎士たちが息を呑むほどに、その声は少女と程遠い。まさに、『王気』とも呼べるべき覇気を纏っていた。
「貴方が斬ったのは、貴方の民です」
「それがどうした、アリアドネよ」
剣の刃についた血糊を軽く振って払いながら、シニセスはアリアドネを見る。瞬間、アリアドネの花色の瞳が色を変えた。
「守るべき国の宝を、蔑ろにするのですか」
風が吹いた。緑と水の匂いを含んだ強い風は、緩んでいたアリアドネの頭布を払う。その下に隠されていた髪が、なびいた。
若葉色の髪が、毛先から赤く色付いた。髪が舞う度に、濃い花の香りが辺りに漂っていく。王国軍の兵士たちがざわめいた。
「貴方は貴方の民を、貴方の都合で殺すのか!」
地面が波を打った。ぼこり、と。土の地面から何かが顔を出す。濃い緑色のイバラ。鋭いトゲを持つ、イバラの蔓だ。それは辺りに何本も生え、地面を這う。
まずい。
その光景に、現実へ引き戻されたのはアーベントだった。
ヒューレの民は、怒りや悲しみの感情から、空樹の加護を暴走させてしまうことがある。ヒューレはそれを、「嘆き」と呼んでいた。
蔓は数を増し、地面を伝い、王国軍の騎馬へと向かっていく。おののき馬を下げさせるも、速度が違った。トゲのついた蔓はあっという間に馬の脚を絡めとり、痛みで驚いた馬が暴れ兵士たちが振り落とされた。
嘆きを植物に変え、彼女は怒る。髪を舞わせ、蔓を這わせ、空気を震わせる。
その姿が、シニセスの目には、アリアドネには映っていなかった。炎の中に立つ女性の姿が、アリアドネに重なる。
嘆かれている。自分は、『彼女』になげかれている……。
「陛下! お下がりください!」
声に、シニセスの意識は現実に引き戻された。慌てて馬を下がらせるが、その馬に蔓が迫る。
しかしその蔓は、馬の脚を取る前に動きを止めた。
半ば我を失っていたアリアドネを、覆い被さるようにしてアーベントが抱き締めていた。アリアドネがゆっくりと、アーベントを見上げる。
「自分を、見失うなアリアドネ……あいつらも、お前の民だ」
よく見れば、アーベントは棘のついた蔓を素手で掴んでいた。アーベントの加護の力により、蔓は瞬く間に枯れていき、土と変わらなくなる。ぽたりと、アーベントの掌から赤い雫が落ちた。
加護の暴走は、止まった。アリアドネの細い体が、地面に崩れ落ちる。同時に、大きく加護を使ったからか。アーベントもどさりとその場に倒れた。
未だ暴れる馬、それを止める兵士。落ちた拍子に怪我をした者は少ないが、その心に刻まれた恐怖は大きい。ヒューレとは、人ではない。それを、大きく深く刻むこととなった。
赤色から元の若葉色に戻っていくアリアドネの髪を見つめてから、シニセスは兵士たちを見ずに言った。
「アリアドネを連れて帰る。……そのヒューレは捨てておけ」
もはや脅威にもならないだろう。
兵士たちがアリアドネを慎重に抱き上げ、連れて行く。それを追いかけるように、アインレーラとニアも駆け出した。
それ以外の者たちは、倒れたアーベントと、投げ出されたモナの遺体を、ただ見つめることしかできなかった。
がたがたと、馬車が揺れる。
加護を暴走させたからか、アリアドネは目覚めることなく眠っていた。
護衛を申し出たのはアインレーラだったが、シニセスは何も言わずにそれを許した。幼くあどけない顔は苦しげに歪み、時折ぽろぽろと涙を流している。
あの女性とアリアドネの関係を、アインレーラは知らない。だが、憔悴するアーベントの表情から察することはできた。どんな関係だったのか。2人にとって、彼女はどんな存在だったのか。
守ることができなかった。
アインレーラは強く、奥歯を噛み締める。
町に馴染むアリアドネは、1度顔を合わせたことのある王女としての彼女とは違っていた。生き生きとして、本物の町娘のようだった。
そのまま町娘として生きたとしても、彼女は幸せだっただろう。あと数年すれば、喋り方も性格も、町娘とすっかり変わらなくなっていたかもしれない。
彼女の幸せを、その生活を、守りたかった。
しかし、何よりも。
一瞬だけ浮かべた、アリアドネの悲痛な表情をアインレーラは覚えている。モナという女性の亡骸を見た瞬間、確かにアリアドネはそんな顔をしたのだ。
彼女を悲しませたくはなかった。こんな悲劇を、起こしたくはなかった。
騎士団、その次期団長と呼ばれていながら、何たる無力。
幼くか弱い少女の幸せすら、自分は守れない。
青ざめた少女の頬に、涙が一筋流れて行く。それを優しく拭い、アインレーラは華奢な身体を優しく抱きしめた。
その人物がどれだけの人に慕われていたか。それは葬儀でわかる。
その日、モナのために多くの人々が涙を流した。
チェルル一番の仕立て屋。その腕と、快活な笑い声はチェルルから永遠に失われることとなった。彼女の声を、もう二度と聞くことはない。彼女が布を切る小気味の良い音も、ネモを叱る声も、もう聞こえないのだ。
町外れの墓地には、モナの夫の墓がすでにあった。その隣に、モナの墓は作られることになった。夫の隣で、静かに彼女は眠る。
町の人々が不憫に思ったのは、ネモだった。幼い彼は、父と母を早くに亡くすことになってしまった。しょっちゅうふざけてはモナに叱られていた、その元気な声も、ここ数日は聞こえていない。モナの寝台に丸くなり、起きてこない。そう、祖母は語っていた。
そして、アーベントも。
ここ数日、誰も姿を見る者はいなかった。葬儀にも顔を出さず、薬草売の店も閉まったままだ。だが顔を見に行く者は誰もいなかった。
アーベントとモナの関係は、町の人々はよく知っていた。モナの夫が死んでからは、アーベントはモナを気遣いよく顔を出していた。最初こそは彼が夫を助けられなかった罪滅ぼしをしていると人々は考えていたが、時が経つにつれ、2人はすっかり夫婦同然の付き合い方をしていた。
いつ本当の夫婦になるのか。町の一部では、そんな話にもなっていた。男衆の一部では賭けを始める者もいた。……だからこそ、彼の顔を見に行けなかった。
ついに、町の1人がアーベントの店を訪ねた。戸を叩き、返事を待つ。やはり、と言うべきか。返事は返ってこなかった。
「アーベント、入るよ」
声をかけてから、男は中に入る。
そこは、もぬけの殻だった。薬草束がテーブルに並び、丁寧にまとめられている以外、荷物はほとんどない。当然、アーベントの姿もなかった。
部屋の中からは、一通の手紙が残されていた。チェルルの町への感謝と、アリアドネのこと。そして、謝罪の言葉が綴られていた。
アーベントが町を出たことは、その日のうちに町全体に広がった。怒る者はいなかった。ただ、悲しみを誤魔化すように、町の人々は日々の仕事に戻っていった。
モナの墓の側には、誰も植えた覚えのない苗木が植えられていた。だがそれを植えたのが誰なのか、わかっていても誰も言うことはなかった。
青い空が近付き、雲は大きく膨らんでいく。青い青い空に、湿った香りのする風が吹いて行く。チチチ、と。何も知らない鳥たちが、呑気な鳴き声を響かせていく。
もうすぐ、夏至になろうとしていた。