「あら」
モナは布を切る手を止めて、開いた扉を見た。
ここはチェルル唯一の仕立て屋だ。主に服を作ったり直したりして生計を立てているが、布と糸を扱うことならなんだってする。
その仕立て屋の女主人であるモナは、扉の前に立っている男を見て、笑顔を浮かべた。
「珍しいじゃない、アーベント。あなたがここに来るなんて」
店を訪れた男、アーベントは少しばつの悪そうな顔をして「まあな」と短く言った。
アーベントは、数年前にチェルルの町にやってきた薬草売りだった。アーベントの来る1年前に薬草売りの老婆が死んでから、この町に薬草売りはいない。それを聞きつけてか、彼は突然現れたのだ。
愛想もないし、店に行けば煙草を吸っているか寝ているか。たまに森の中に行っていていないときもある。おまけに、いつも頭に布を巻き付けていて、彼の髪を見たものはいない。もっぱら、彼はヒューレだと噂だった。
「1つ、服を仕立てちゃくれねえか」
布越しに頭を掻きながら、アーベントは言う。
服?
そうモナが聞き返したところで、ひょこりと、アーベントの背中から小さな影が顔を出した。
13,4ほどの少女だった。頭には、アーベントと同じように布が巻かれている。着ている服は、アーベントが普段森に入るのに使っている外套でほとんど見えない。だが、ひと目見て、その生地が高価なものであるとわかった。
「…………アーベント、まさかあなた娘がいたの?」
「ちげえよ、親戚の子だ。預かることになってな」
モナは少女を見て笑顔を作る。少女はアーベントの背中から姿を現すと、幼い声で言った。
「アリアドネ、です」
ありふれた名前だが、なんとなくその声からは賢さがにじみ出ている。モナはふうんと笑うと、
「なるほど。……アリアドネちゃん、こっちにおいで」
手招きするモナに、アリアドネは少しだけたじろぐ。アーベントがアリアドネの背中を押して、ようやくアリアドネはモナに近付いた。
「じゃあ、採寸するわね。この辺りの服でいい?」
「ああ。冷えるといけねえから、生地はあったけえやつで頼む」
「任せておいて」
言ったところで、店の奥から少年が顔を出した。「あ!」と声を上げて、少年はアーベントに駆け寄る。
「アーベントだ! どうしたの? 咳止めの薬草は足りてるよ?」
ネモか、とアーベントは少年を見下ろして言う。ネモはにこにこと笑いながらアーベントを見て、その次に、採寸されているアリアドネを見た。
「……アーベントの子供?」
「ちげえっつの。親戚の子」
ネモはアリアドネを見て、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「俺、ネモ! あんたは?」
少年に気圧されて、「えっと」と視線をさまよわせる。アーベントはため息をついて、「アリアドネ」と代わりに名を教えた。
「アリアドネ? 王女様と一緒の名前だ!」
無邪気に笑ってネモは言う。アリアドネはぎこちない笑顔を浮かべながら、あははと笑った。
「ほら、ネモ。あんた水汲み終わったの?」
採寸をする手を止めずに、モナが咎めるように言う。ネモは「いっけね」と声を上げると、
「じゃあな、アーベント、アリアドネ! 今度また店に行くね!」
そう言ってばたばたと走り去っていった。
まったく、と。モナがため息を吐く。アーベントも同じようにため息を吐いた。
「うちの息子がごめんなさいね。びっくりしたでしょう?」
「え、えっと」
言葉を探して、アリアドネは黙る。する、と。測り紐がこすれる音が響いた。
「悪いやつじゃない、ちっとばかし元気がすぎるけどな」
そっけなくアーベントは言って、我がもの顔でその辺りの椅子に腰をおろした。その様子を横目で見て、モナは笑う。
「もうちょっとで終わるから、待ってなさい。煙草は吸わないでね、布が焦げたらいけないから」
「わかってるよ」
ぶっきらぼうに返したアーベントが、次の瞬間何をするかはわかっている。
モナの予想通り、彼は目を閉じてうたた寝しはじめた。
服ができあがったのは3日目だった。
この辺りでよく着られている服を着たアリアドネは、物珍しそうに裾を引っ張っている。少女らしい、華やかな色で仕立てられた服が良く似合っていた。
これで周りにも溶け込めるだろう。ほっとして、アーベントはアリアドネを見た。
「うん、私の仕立てに間違いはなかったね。よく似合うよ」
「あ、ありがとうございます」
折り目正しく、アリアドネは礼を言う。モナはくすくすと笑った後、右手に持った針を左腕につけた針山に刺した。
「ほら、お代」
そっけなく言って、アーベントは銅貨をいくつか差し出す。モナはそれを受け取って数えると、1枚返した。
「これはいつものお礼でおまけ。うちのばあちゃんの咳止め、よく効いて助かってるよ」
「そりゃ仕事でやってんだ。対価はきっちり払わせてもらう」
「何言ってるのよ、お互い様って言うじゃない」
「こういうのはきっちりしてえんだよ俺は」
1枚の銅貨を渡したり返したりを繰り返す。そんなモナとアーベントを交互に見て、アリアドネはきょとんと首をかしげた。
「気にしないで、アリアドネ。母ちゃんとアーベント、いつもこうなんだ」
ネモが笑って言う。アリアドネはネモを見て、少し楽しそうに笑った。