ざわめきと音。騒がしく、男たちはしきりに声を上げている。人々の溢れかえるそこに、アリアドネはいた。
太陽はまだ眠そうに地平からのそのそと起き上がっているところだ。深い青と橙色の混ざる空は乾いていて、風が冷たい。
ここはチェルルの朝市。小さな町なため規模も小さいが、賑やかな朝の光景が広がっている。森を越えた町から仕入れた品や果物、肉などが並んでいた。
「よお、アーベント! 入り用だろ? 買っていかないか!」
「また今度」
慣れたようにそこを歩くアーベントはかけられる声に適当に返しながら、店のものを見ていた。その後ろをついて歩き、アリアドネはきょろきょろと辺りを見回す。
肉が吊るされた店。色とりどりの果物が並ぶ店。干された魚が並ぶ店。その中の、野菜が並ぶ店の前でアーベントは止まった。
「やあ、アーベント。……娘ができたって噂は本当だったんだね」
「娘じゃねえって何回言やあいいんだ」
うんざりした顔でアーベントは言う。からからと女店主が笑った。
「あんたが1人じゃないのが珍しいのさ。あんたについて回る子供なんか、ネモくらいじゃないか」
「あいつは勝手についてくんだよ」
話の合間に、アーベントは葉物の野菜と根野菜を示す。店主はそれをいくつか袋に入れた。
「これはおまけ。食べ盛りだろ? 食べさせておやり」
「おいおい、いいのかよ」
アーベントの言葉に、女店主が笑う。アーベントは考えたあと、1枚多く銅貨を渡した。
「アーベント、1枚多いよ」
「気にすんな」
返される前に、アーベントは店の前を去る。紙の袋を抱えて、今度は干し魚を何枚か買った。
買い物が終わる頃には、太陽はすっかりと目を覚まして、地平よりも少し高いところで輝いていた。家に着く頃には空の色はすっかり明るくて、薄い青の空が広がっている。
家に着くなり、アーベントは炉に火を入れた。火打ち石を鳴らすかんかんという音が響く。
「疲れたろ、朝飯にしよう」
短く言って、アーベントは戸棚からチーズとパンを出す。ナイフでパンとチーズを薄く切り、皿のうえに置いた。
それをテーブルに置いてから、鍋に水と豆を入れて炉にいれる。ぐらぐらと豆を煮ながら、側に吊るしてある薬草と干し肉をいくつかとった。
立ったままのアリアドネに「座れ」と素っ気なく言って、アーベントは素早く朝食の準備をしていく。
「あの、私も何かお手伝い……」
言ったところで、アーベントはテーブルに茶器と瓶を置く。瓶の中身を茶器に入れ、
「今度手伝ってもらうから」
と、また素っ気なく言った。
アーベントの後ろ姿を見つめてしばらくすると、簡素だが暖かい朝食がテーブルに並べられた。
アーベントは木のコップを持ち上げると、飲む前にそれを掲げた。
「空樹に感謝を」
その仕草に、アリアドネはきょとんと首をかしげる。そういえば、アーベントはいつも食事前にこれをしていた。
「……あの、それはなんですか?」
聞けば、アーベントは少し驚いた顔をして、「教えられてねえか?」と問う。アリアドネはこくりと頷いた。
「……ここまで廃れちまったか。……いいか? これはヒューレの食事の前の祈りの言葉だ」
一旦コップを置いて、アーベントは語る。
「この国で作物が育つのも、動物が育つのも、全て空樹の加護のおかげだ。その空樹に感謝をして、命を頂く。……ヒューレの心構えってやつだよ」
そういえば、この国にはヒューレ以外が食事前に祈りを捧げる文化はなかったな、とアーベントは思う。その文化に馴染んでしまったのだろう。
「……コップを少し上に持って、空樹に感謝を、と短く唱える。これだけでいい」
アリアドネはアーベントの真似をして、コップを掲げる。そして小さく、
「空樹に、感謝を」
そう唱えた。
うん、とアーベントは満足げにそれを見て、自分ももう一度コップを掲げ、
「空樹に感謝を」
唱えて、コップを置いた。
アリアドネは、いつも本当にうまそうに物を食べる。それだけで、空樹への感謝をしているようなものだろう。
食べ盛りの少女の食いっぷりを見つめて、アーベントもスープに手をつけた。