くしゃりと、靴の底が草を踏む音がする。春の深まる森の中は、青い草の香りで満ちていた。湿ったような、水の匂いを含んだ風が、頬を撫でていった。
チェルルのすぐそばにある森。その中に、アーベントとアリアドネは足を踏み入れていた。アリアドネは木の皮を編み上げた籠を両手で持ち、アーベントの背中を追う。アーベントは歩き慣れた様子で枝や草を避けながら歩いていた。
森の中は静かで、時折鳥の鳴き声が反響していた。奥に入るにつれ、木々の間隔は狭まり、茂る草が増す。くしゃり。草を踏む。
ふと、アーベントが足を止めた。それを見て、アリアドネも止まる。
アーベントは木を見上げていた。その視線をたどって、アリアドネも木を見上げる。まだ薄い緑の葉がついた木の枝に、小さな実がなっていた。まだ青いが、ところどころ熟して黄色に色づいた実も見える。
「あれがリアの実だ。実はそのまま食うが、皮が薬になる」
実を指さしながら、アーベントが言う。アリアドネは実を見上げて、
「……どうやって、取るんですか?」
不安げにそう言った。
リアの実は、ずいぶんと高い場所に成っていた。一番低い枝も、アーベントの頭より高い場所にある。アーベントは持っていた麻袋を地面に下ろした。
「そこにいろよ」
言って、アーベントは少し木から離れる。そのまま助走をつけると、幹を駆け上り枝を掴んだ。そのままするすると、慣れたように木に登っていった。
腰にくくりつけたナイフを取り、枝から実を切り落とす。まだ青い実を取ると、
「アリアドネ!」
名前を呼んだ。はっとして、アリアドネはアーベントを見上げる。アーベントは実を持った腕を軽く揺らすと、
「投げるぞー!」
慌ててアリアドネは手に持った籠を構える。アーベントはその中めがけて、軽く実を放った。実はゆるい弧を描いて、籠の中に入る。籠の中の実はアリアドネの掌ほどの大きさで、きれいな球ではなくでこぼことしていた。
見つめていると、2つ目の実が籠の中に入ってきた。驚いて木を見上げると、アーベントがこちらを見ているのがわかった。
「ぼーっとしてると、頭に当てるぞ」
いつもどおりのぶっきらぼうさで、アーベントは言う。「はい!」と返事をすると、アーベントの動きをしっかりと見つめた。
木の上からアリアドネを見ていたアーベントは3つ目の実を掴みながら、ふ、と微笑んだ。ちちち、と。小さく鳴く鳥が枝に止まる。熟しかけの実をつついている鳥を見て、また、アーベントは微笑んだ。
青い実を数個と、咳止めの葉をいくつか。そしてついでに見つけた熱冷ましの草を籠に詰めて、2人は森から出た。
器用に草を紐で括って、アーベントは窓際にそれを吊るす。アリアドネは実の1つを手にとって、手の中で転がしながら見ていた。
「食ってみるか?」
アリアドネを覗き込んで、アーベントが言う。アリアドネはきょとんとアーベントを見上げると、実を見つめた。
「もう、食べられるのですか?」
アリアドネの手から実を取る。大きな手で実を包むと、手の中の実が瞬く間に黄色く熟した。
「ヒューレの前でなら、加護も使っていい」
テーブルに置かれた実は熟し、酸味のある香りがふわりと漂う。厚い皮にナイフの刃を通すと、その切れ目に指を入れ皮を剥いた。
出てきた実は皮の色に反して、赤い色をしていた。6つほどに分かれている実の1つを取ると、アリアドネの掌に置く。アリアドネは実を指先でつまむと、窓からの光に透かして見た。
アーベントは実をつまむと、ひょいと口に入れる。アリアドネも真似をして、実を口に入れた。
ひんやりとした実が舌に触れる。薄い皮を歯でぷつりと切ると、果汁が舌に落ちてきた。ぐ、と。アリアドネは眉間に皺を寄せる。
声にならない悲鳴を上げながら、口を両手で押さえる。茶をコップに入れながら、くつくつとアーベントは笑った。
「酸っぱいだろ」
お茶を受け取って、アリアドネはこくこくとうなずいた。あまりの酸味に涙を浮かべるアリアドネに、またアーベントは笑った。
「果汁を絞って酒や茶に入れるとちょうどよくて美味いんだ」
「じゃ、じゃあ、そのまま食べるものではないんですか?」
食えると思う?
いたずらっぽく、アーベントが笑う。ふるふると首を横に振って、口直しの茶を飲んだ。
「よく、アーベントさんは食べられますね……」
「慣れてるからな。……あと」
茶を口にしつつ、アーベントは言う。アリアドネの花色の瞳を見つめると、
「アーベントでいい。さんを付けられると落ち着かねえ」
アリアドネはアーベントを見つめて、「でも」と戸惑う。アーベントは「いいから」と素っ気なく言った。
「そっちの方がいいんだ、俺は」
布越しに頭を掻いて言うアーベントに、アリアドネはうなずく。ほのかに香る茶を口にしてから、
「なら、アーベント、と」
アーベントは満足そうに「うん」とうなずく。りん、と。布に付けられた髪飾りの鈴が涼やかに音を鳴らした。