銅貨をいくつか握り込んで、ネモは家から飛び出すように走り出した。
母親に頼まれたのは、目のかすみによく効く薬草だった。モナは仕立て屋なため、細かい作業をよくする。そのためしょっちゅう目のかすみに悩まされていた。
それによく効くと薬草を売ってくれたのはアーベントだった。その薬草は本当に効くためモナが愛用しており、こうやって買いに来るのがネモの役目だった。
「アーベント!」
勢いよくドアを開ける。青い香りが漂うそこに、アーベントの姿はなかった。きょとんと、ネモは瞬きする。
「アーベント?」
呼んでも、返事はない。どうやら留守のようだ。
「ちぇ、いないのかあ」
つまらなそうにネモは言う。走ってずれた頭の布を軽く直して、地面を蹴った。
頭に巻いている――というより、乗せている――布は、母親が捨てようとしていた布を拝借したものだ。いつも髪を隠すように布を巻いているアーベントが格好良く見え、真似をしている。
アーベントはぶっきらぼうで、あんまり笑わない。けれど優しくて、薬草を刻んだり磨り潰したりしているときの目がかっこよくて、ネモは好きだった。
ちちち、と。鳥が鳴いて羽ばたいていく。小さな鳥が森の方向へ飛んでいくのを見て、ネモは気付いた。
きっと、アーベントは森に違いない。アリアドネもいるはずだ。なら、森までアーベントを呼びに行けばいいんだ。そしたら、森の中で薬草や動物や、そんなことをたくさん教えてくれるかもしれない。
どうして今まで思いつかなかったんだろう。ネモは世紀の大発見をしたみたいな顔で、アーベントの家のテーブルに握りっぱなしだった銅貨を置く。そのままアーベントの家を飛び出すと、森の方向へ走り出した。
「おや、ネモ。どこに行くんだい?」
すれ違った老婆に、微笑みながらそう聞かれる。ネモは笑顔のまま、
「ちょっとそこまで!」
と笑って、走り去った。
森を出た頃には、日が傾いていた。金色を帯び始めた光は、柔らかく世界を包み込んでいる。夕飯を作り始めた家から、食欲をそそる香りが漂っていた。
その日もアーベントとアリアドネは薬草を採りに森の中に入っていた。春も深まってきた今頃は、薬草を採るのにはうってつけだ。
アリアドネの抱えている籠の中には、いくつかの薬草と、それを採るのに使ったナイフが詰められている。アーベントの左腕には、切り落とされた木の枝が数本抱えられていた。
町の中に入ると、アーベントはいつもと違う空気を感じ取っていた。妙に、町がざわついている。アーベントは抱えていた木の枝を「持っててくれ」とアリアドネに渡すと、数人で話をしている男たちに駆け寄っていった。
「何かあったのか」
男たちはアーベントを見ると、少しだけほっとしたような顔になった。どうやら、本当に何かあったらしい。
「実は……」
男の1人が口を開いたところで、「アーベント!」と名を呼ぶ声が聞こえた。見れば、モナが駆け寄ってきている。嫌な予感がした。
「モナ、何があった」
短く問う。モナはアーベントの前で止まると、鬼気迫る顔で言った。
「ネモが、いなくなった」
弾んだ息で、それだけようやく言う。アーベントはぐっと眉をしかめると、
「町の中は」
「探したよ、どこにもいやがらねえ」
モナの代わりに、男が答える。まさか、と。アーベントは口を開いた。
「……森か」
モナは「そこしかない」とうなずいた。
「あんたの店に、薬草を買うように頼んだの。それから帰らなくて……まさか、あんたを追って森の中に入ったんじゃないかって……」
咄嗟に太陽を見る。太陽は無慈悲にも、傾き続けていた。空の色も、金色から濃い橙へと変わりつつある。このまま日が暮れれば、道は更にわからなくなるだろう。その上、狼も出る。
脳裏に、光景が蘇った。狼に食われる男を1人、助けることができなかった。それは、ネモの――――。
「探してくる」
短く言って、アーベントはアリアドネを見た。
「アリアドネ!」
名を呼ばれて、アリアドネは枝を抱えたままアーベントに駆け寄った。
「何か、あったのですか?」
「ネモがいなくなった。……どうやら、森に入ったらしい」
驚いた顔で、アリアドネがアーベントを見る。アーベントは籠の中からナイフを取った。
「お前は家にいてくれ」
言って、アーベントは一度家に戻り、ランプを持った。そのまま動きを止めずに走り出す。
「俺以外は森に入るなよ!」
町の人々にそう告げて、アーベントは森への道を走る。「気をつけろよ」「頼んだぞ」とかけられる声を背に、アーベントは森へ入っていった。
歩いても歩いても、アーベントとアリアドネの姿は見つからなかった。
少しずつ空は暗くなっていき、木で光が遮られた森の中はすでに薄暗い。心細くなってきた心で、「もう帰ろう」とつぶやいた。
くるりと後ろを振り向けば、同じような光景が広がっていた。木々と草。自分が歩いてきた道など見つけられるわけもなく、どこをどうやって歩いてきたのかもわからない。
急に泣きたくなってきた。お腹も空いてきたし、歩き続けた足はもう棒のようだ。その場にへたりこんで、膝を抱える。
「アーベントー! アリアドネー!」
大きな声で名前を呼ぶ。しかし、応える声はない。ばさばさと、鳥が羽ばたいていった。
どうしよう、今頃きっと母親は心配しているだろう。けれど、母親は森の中には絶対に入りたがらないのだ。探しに来てくれるかはわからない。
ふいに、父親を思い出した。ずいぶん小さかった頃に死んでしまった父。たしか、森の中で狼に襲われて、殺されてしまったんだ。
……狼?
気付いたときには、遠くから声が聞こえていた。あおおおんと、遠吠えする狼の声。
ひ、と。小さく声を上げて、立ち上がった。
――狼はね、あんたのお父さんを一瞬で食い殺した恐ろしい生き物なのよ。あんたなんか、すぐに頭から食べられちゃうわ。だから、森の中には絶対に入っては駄目よ?
母の忠告を、今更のように思い出す。あおおおん。声が、近付いてきた。
「い……いやだ」
小さくつぶやいて、ネモはその場から逃げるように駆け出した。どこに走ればいいのかもわからないのに、夢中で。
逃げても逃げても、狼の声はちっとも遠くならない。むしろ、近付いているような気さえした。疲れてもつれる足で、必死に走る。
がん、と。足首に鈍い衝撃があった。そのままべちゃりと、ネモはその場に転ぶ。倒れた木の幹に躓いたらしい。じんじんと、足首が痛んだ。
なんとか立ち上がろうと、地面に手をつく。そして、見た。
目の前に、光る2つの目玉があった。青い青い目は、狼の目だ。ゆっくりとこちらに、近付いてくる。
「いやだ、こないで」
立ち上がるのもままならず、尻をついたままネモは後ずさる。その背中が、木の幹にどんと当たった。
どんどんと、狼は近付いてくる。その歩みはやがて駆け足となり、勢いよく走ってきた。
ぎゅっと、ネモが目を瞑る。狼が地を蹴る音がして、そして。
どん、と。鈍い音がした。きゃいんと悲鳴を上げる狼の声がして、ネモは目を開ける。
目の前に、木が生えていた。さっきまでは生えていなかったはずの木。それが、ネモを守っていた。
「ネモ!」
名前を呼ぶ声がして、ネモは顔を上げる。ランプの光が見えた。
「アーベント……!」
こちらに走ってくるのは、アーベントだった。アーベントはネモの目の前に立つと、狼を睨む。
狼は、まだ諦めてはいないようだった。じろりとこちらを睨みつけている。アーベントは掌に持ったそれを、もう一度放り投げた。
それはトゲを持つ大きな蔦となった。ぐねりと伸びたそれは、狼を絡め取るように動く。狼が動きを止められている隙に、アーベントはネモを背中に背負った。
しっかりとネモを背負い、アーベントは走り出す。乱れた布からはちらりと、緑色の髪が見えていた。
森の出口の近くまで来たところで、ようやくアーベントは走るのをやめた。
大きく息をしながら、ネモを下ろす。木を切り倒した後の切り株に座らせて、アーベントはネモを見た。
「馬鹿野郎……!」
ネモの両肩を掴んで、アーベントは言った。
「なんで森に入った!? お前、自分の父親がどんな死に方したかわかってんのか!」
だって、だって。
ほっとしたのか、それとも怒られているからか。ネモはぼろぼろと泣き始めた。ひく、と。泣き声が響く。
アーベントは一度大きく息を吸い込むと、吐き出す。そして、またネモを見た。
「森は俺達にたくさんのものを与えてくれる。だがな、それ以上に、森は恐ろしい場所だ。慣れてないやつが足を踏み入れれば、餌食になるんだ。狼も出る。狼以外でも、鹿だって、お前を殺せるほど強いんだ」
もう二度と、1人で森に入るな。
言って、アーベントは立ち上がった。
乱れた布を巻き直してから、ネモの手を取る。ネモは立ち上がろうとして、先程木の幹にぶつけた足が痛んだ。へたりこんだネモを見て、アーベントは足首をランプで照らした。
「……痣になってるな。このくらいなら、すぐ治る。町に戻ったら、良い薬草をわけてやるよ」
優しく言って、アーベントはネモを再び背負った。そのままゆっくりと、森の出口へと歩き出した。
「……アーベント、ごめんね」
小さな声で言うネモに、「それは母ちゃんに言ってやれ」と素っ気なく返す。歩きながらアーベントは少しだけバツの悪そうな顔になると、「それよりも」と続けた。
「さっきのあれ、誰にも言うなよ」
さっきの? そうつぶやいて、思い出す。
突然生えた木、伸びた蔦。あれはきっと、ヒューレの持つ力だ。
アーベントは、本当にヒューレだったんだ。
ネモは「うん」とうなずく。アーベントは「よし」と呟くと、
「俺とお前との秘密だ」
そう言った。
「男と男の約束?」
「そうとも言うな」
くく、と。アーベントが笑う。ネモもおかしくなって、少し笑った。
町に帰った途端、モナはネモの頭を強めに叩いてネモを叱った。その剣幕といったら、そんじょそこらの男じゃ敵わないほどだった。
アーベントは家から打ち身によく効く薬草を取ってくると、モナに渡した。モナは少しだけ泣きそうな顔になって、言った。
「あの人みたいに、もう戻ってこないかと思ったわ……」
再び、脳裏に光景が蘇る。森に入り帰って来れなくなったモナの夫を探しに出たのは、やはりアーベントだった。
あのときは、加護を使うこともできず、ただ見殺しにすることしかできなかった。できたことは、死体を町に持って帰ること。
世界の終わりみたいに泣いたモナを、今でも思い出せる。
「アーベント。……ありがとう、生きて連れて帰ってくれて」
モナの言葉に、何も返せなかった。ただ頷いて、薬草を渡した。
家で待っていたアリアドネに、「連れて帰ってきたよ」と言うと、アリアドネはほっとした顔になった。心配していたのだろう。
「疲れたな、さっさと飯にしようか」
炉に火を入れたアーベントの背中を見て、アリアドネはうなずいた。