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 夢を見た。

 湿っぽくて、熱い風が吹いている。アスファルトから昇る陽炎が、向こうの景色を歪めていた。

 風に潮の香りが混ざっている。埠頭から海の向こうを、ただ彼女は見つめていた。

 いくつも船が行き来する海は、静かに波を立てていた。ばしゃんと、埠頭に波が打ち付ける音がする。照りつける太陽は目に映る何もかもを明るく照らし出していて、目が痛いくらいだ。

 急に視界が変わって、次は揺らぐ吹き流しを見た。

 人がひしめいている。アーケード商店街の天井から、色とりどりの吹き流しが吊り下げられていた。僅かな風と、人の動きで、カラフルな吹き流しが揺れている。

 音楽が聞こえた。宮城にいるときは飽きるほど聴いた『青葉城恋唄』が、繰り返し繰り返し流れている。人いきれの中で、夏の暑さはこもり、蒸されるようだ。

 ――――時は巡り、また夏が来て。あの日と同じ、流れの岸。

 ワンピースを着た彼女が、走り出した。目の前を、人混みの中を颯爽と駆け抜けていく。 ――――瀬音ゆかしき、杜の都。

 追いかけようとする自分の足を、体を、ひしめく人々が邪魔をする。必死に掻き分けようとする自分を置いてけぼりにして、彼女は遠く向こうへと去っていく。

 待って。そう叫ぶ自分の声すらかき消すように、『青葉城恋唄』が流れていた。

 ――――あの人はもう、いない。


 目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。

 じっとりと体が濡れている。たぶん汗だ。額に浮いた汗をゆっくりと拭って、それと同時に、現実の中の自分の体を思い出していく。指先、つま先、頭……全身の感覚を思い出して、恐る恐る体を起こした。

 目覚ましが鳴る5分前だった。目覚ましが鳴る5分前に起きてしまうのは、高校の頃からだ。未だにこの癖が抜けきっていないことに驚く。起きる時間もだいぶ変わったというのに。

 6時25分。鳴る前の目覚ましを止めて、布団から立ち上がる。隣のベッドを見ると、もうすでに空っぽだった。いつものことだから、そうだよなあ、と思うことにした。

 東京に来てから、もう1ヶ月が経っていた。

 来てすぐに行われた入学式を終えて、今はほぼフルコマでの授業を受けている。空きコマが出てくるのは2年生からだそうだ。

 汗で気持ちが悪い布団を抜け出して、龍騎はリビングに出る。飲み終えたマグカップと、トーストのパンくずが残る皿がキッチンに残っていた。朝はトースト派らしい。ちゃんとした朝ごはんを作ってあげたいと思ったが、八雲さんの起床に合わせられる自信がなかった。

 夕飯のときに合わせて作って、温めるだけにしておいてあげようか。

 考えながら、食パンをトースターにセットする。コーヒーは飲めないから、朝はいつも野菜ジュースだ。自分以外が食べないとなると、料理をする気にはなれない。八雲さんとおそろいのトースト朝ごはんがいつもだ。

 パックから野菜ジュースをコップに注ぐ。注がれたオレンジ色のジュースを見つめて、見た夢のことを思い出していた。

 仙台の七夕まつり。そこで、彼女を追いかける夢。

 彼女のことは忘れたつもりだったのに、まだ覚えていたらしい。彼女のお気に入りだった青色のワンピースが、妙にこびりついていた。はためくスカートを覚えているのは何故だろう? 夢の中のあの場所は、人混みだったというのに。

『きっと龍騎くんにはわからないよ』

 夕暮れの坂道を思い出した。そう言って、坂を走って下っていった後ろ姿。残暑の残る9月。傾いた日はオレンジ色で、そう、このジュースみたいな色をしていた。

 セミロングの髪が揺れているのを、覚えていた。

 トースターがチンと鳴った音で、意識が急激に現実に引き戻されていった。鼻は潮の香りではなく、トーストの焼けたいい香りを捉える。

 目が捉えたのは、乱雑に物が置かれた部屋だった。

 片付けないとな。そう思った。

 


 1ヶ月ずっと乗っても慣れない満員電車から吐き出されて、一応もう慣れた道を歩いていく。5月に差し掛かった日差しは、寒いような、少しだけ暑いような、中途半端な温度をしていた。

 道を歩けば「龍騎くん、おはよう」と挨拶をしてくれた地元の人が、1人もいない道。最初の頃は寂しかったのに、今ではそれが普通だ。

 でも、今日みたいに。少しだけ気分が乗らない朝は、そっちの方が優しいんだなと思い知る。田舎にはきっと田舎なりの優しさがあって、都会には都会なりの優しさがある。人に深く干渉しないというのは、きっと優しさだ。

 嗚呼、今日みたいな顔で道を歩いたら、三秋のばあちゃんに心配されてたんだろうな。

 そう思って、ちょっとだけ笑った。――――笑えたから、きっと大丈夫だ。

 そうこうしてたら大学に着いた。ビルの形をしている大学は最初見たときは驚いた。イメージの中の大学はもっとこう、階数が少なくて、横に大きいイメージだった。この大学は完全にビルで、オフィスビルみたいだ。全部で10階あって、その中に全部入ってる。

 エレベーターに乗ってもよかったけど、あんまり人のなかにいるのは好きじゃない。運動にもなるし、8階だろうが最上階だろうが、龍騎は階段を使っていた。

 今頃、八雲さんはどうしてるだろう。

 そう考えた。


 講義は最初は一般知識が主な内容だ。高校のときの復習や、その延長線が大部分を占めている。なんとなく高校の授業と変わらないような気がして、退屈だ。

 先生の話を聞き流しながら、夕飯の献立を考える。まだ人参と玉葱が残っていたし、豚肉がちょうど安い日だ。カレー……いやいや、そんな安直なメニューでなるものか。ここはあえての肉じゃがにしよう。こんにゃくとじゃがいもも買わなくては。

 その前に、少し部屋を片付けよう。目を離すとすぐにリビングに本を積むのだから呆れてしまう。本棚が足りないみたいだから、引っ越しのときのダンボールで少し本棚を増やそうか。どうせ今日も帰ってくるのは遅いのだから、それを待つ間DIYでもしていよう。

 そう考えているうちに、今日の講義が全て終わった。時間はすでに夕方で、窓の外は少しだけオレンジ色だ。

 荷物をまとめて講義室を出ようとしたところで、名前を呼ばれた。そこにいるのは、一丸。倉波一丸は、大学で知り合った友人だ。

「龍騎さん、今日はここに座ってたんですね」

「うん。お前は?」

「あそこです」

 一丸が指さしたのは、少し後ろの端の方。そっか、と頷いて、自然と2人で講義室を出た。

「この後予定あります? お腹へったんで、マックでも行こうかと思ったんですけど」

「ん、パス。夕飯作らないと」

 ああ、と一丸はうなずく。一丸には、年上の男性の家に居候していることを言っていた。……好きな人だとは言っていない。

「大変ですね、居候っていうのも」

「いや、俺が好きでやってることだから」

 言って、ふと、思いつく。

 八雲さんには、「友達は好きに家に入れていい」とは言われていた。一丸を見て、言う。

「買い出し付き合ってくれたら、飯作るけど」

 いいんですか? 一丸の顔が輝いた。ちょっと得意げになって、うなずく。

「これでも、飯は高校のときから俺の役目だったから。ちったあ食える腕だど?」

「やった、龍騎さんのご飯食べてみたかったんです。そうと決まったら荷物持ちでもなんでもやりますよ」

 現金なやつ。笑って、2人で大学を出た。


 夕飯の買い出し、それとちょっと洗剤やらを買って、荷物の一部を一丸に持たせる。

 帰ってくると、予想通り八雲さんはいなかった。「おじゃましまーす」と、一丸の声が響く。

「おお、男の家って感じ」

「素直に汚えって言っていいよ。あの人、ゴミはちゃんと捨てるけど物は置きっぱなしだからなあ」

 笑って言いながら、龍騎は台所に向かう。適当に置いて座ってと一丸に伝えて、夕飯を作る準備をしはじめた。

「あ、ゲーム機がある!」

「やってていいぜ、おすすめはキンハー」

 一丸はやったと声をあげてPS4の電源を入れる。それを見ながら、龍騎は夕飯を作ることにした。

 声をあげながらゲームを楽しむ一丸に、たまにアドバイスを入れてやりながら、3人分の夕飯を作る。肉じゃがに火を通す間は、一丸の隣に座って少しばかり観戦した。ゲーム慣れしていない一丸は下手くそだが、それでも楽しんでる。素質あるな。ちょっと思った。

 できた夕飯は肉じゃがと、浅漬け。わかめの味噌汁と白米。そして、一丸に「肉が足りない」と怒られて急遽作った焼き肉だ。

「いただきまーす」

 嬉しそうに一丸は夕飯にありつく。彼もまた一人暮らしらしい。大学を理由にして、神奈川に住んでいるのに東京に住み始めたという。

「いやあ、実家にいるときは親がうざったくてしかたなかったんですけどね。家事をしてくれてるってだけでありがたいんですねえ。お母さんごめんって感じ」

「俺は家にいるときも家事担当だったからなあ。逆に、今大変だろざまあみろって感じ」

 きょとんと顔をあげて、一丸が龍騎を見る。

「共働きとかですか?」

「母さんは中学の時死んでさ。父ちゃんと弟と俺の3人で、父ちゃんは仕事だったから自然と俺が」

 う、と一丸が顔を曇らせた。謝る前に「いいんだよ」と苦笑する。

「龍一……ああ、弟な。あいつが家事手伝ってくれりゃもっとマシだったんだけどさ。あいつすぐサボるから。今あいつが家事担当だぜ? ざまーみろ」

「いいお兄ちゃんですね~」

「褒め言葉として受け取っとく」

 笑いながら、皿の中を空っぽにしておく。八雲さんの分は最初に分けてあるから、カラにしても大丈夫。食べ終えた皿を洗ってくれたのは一丸だった。

「このくらい、1椀の恩ってやつです」

「ありがたいけど、皿割るなよー」

 茶化して言うと、「割りませんよ!」と返ってきた。

 後輩でもないのに敬語なのはいつものことだ。「なんとなく龍騎さんには敬語を使いたいんです」とのこと。まあもう慣れたから、深くはつっこまないことにする。

 ざばざばと皿を洗う音を聴いていると、ふと、波の音を思い出した。

 埠頭に打ち付ける波の音。深い潮の香り。春のはずなのに、夏の湿っぽい風が吹き付けている感覚になる。

「……夢って不思議だよな」

 ぽつりと、言った。一丸が顔をあげて、「へ?」と首をかしげる。

「変な夢見たんだよ。高校の時の同級生が走ってって、追いかけようとしても追いつけない夢」

 ふうん、と一丸は言って、

「その人のこと、好きだったんじゃないんです?」

 茶化すようにそう続けた。

 彼女のことを、好きだったんだろうか。

 いや、きっとそうじゃない。自分が好きだったのは、中学の頃から八雲さんだけだった。だからきっと、彼女は。

「……たぶん、ほっとけなかったんだろうなあ」

 独りで何かと戦っていた彼女を。

 自分に告げられない何かと、戦い続けていた彼女を。

 何を勘違いしたのか、一丸はにやついている。なんとなくいたたまれなくなって、龍騎はキッチンの側にかけていた食器用の布巾を一丸の顔に投げつけた。


 家に帰ると、龍騎くんはすでに寝ていた。

 テーブルには、ラップにかけられた夕飯が並んでいた。今日は肉じゃがらしい。いつも夕飯を作ってくれる龍騎くんには頭が上がらない。

 おまけに、今朝荒らしてしまった部屋が綺麗に片付けられていた。ダンボールで綺麗に本棚が作られている。切れかけの洗剤は補充されていて、せめて食器を洗おうと思ったが、すでに洗ってあった。

 悪いなあ、と思いながら、八雲は寝室を覗く。ベッドのすぐとなりに布団を敷いて、龍騎くんは眠っていた。

 時折彼は、何かにうなされていた。起こすべきなのか。迷っているうちに、彼はすぐに寝息を整える。いつもそうやって、起こせないでいる。

 龍源から話は聞いていた。宮城で何があったのか、どうして東京によこしたのか。

 彼女と、何があったのか。

 あれだけ好きだった海の話題を、何故避けるのか。

 しかし、当の本人からの言葉は、まだ聞けていない。……聞いていいのか、まだわからない。

 ふと、彼が小学生だったあの時を思い出した。宮城に住んでいた、自分の大切な親代わりが死んでしまったあの時。ゆっくりと頭を抱きしめて、撫でてくれた小さな手。

 布団から出ている手を、そっと握る。あの頃に比べて、手はずいぶん大きくなった。自分より一回り小さな手は、それでも、大人の手をしている。

 でもきっとまだ、子供なのだ。たった18の少年は、独りで気丈にも過去と戦っている。

 手助けがしたいと思うのは、自分が彼を知る大人だからなのか。

 それとも、その他の理由があるからなのか。

 それはまだわからない。


 この思いの名を、すでに知っているような気がした。

 その名とこの思いを結びつけたくない。そうも思っていた。

 


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