一歩

 例えば、あの夏祭り。

 前夜祭の花火を見ながら、ぽつりとこぼした言葉。それに言葉が返って来ていたら、どうなっていただろう。

 例えば、あの海辺。

 思うままに心をこぼせていたら、どうなっていただろう。

 もしも、はいつでもたくさん思いつくものだ。あの夏が、あの青色が、いつも心に「もしも」をたくさん生んでいく。潮の香りも、アスファルトが太陽で焦げた匂いも、たくさんの「夏」の記憶がそれを連れてくる。

 君はいつでも海を見ていた。驚くことに、服を着たまま飛び込むこともあった。君はいつでも驚きを与えてくれて、だから。

 あの日、あんなことを言って坂を駈け降らなかったら。

 そんなことも思う。

 君の手を取れていたら、きっと、もう少し違う未来もあったのかもしれないね。

 それでも、それができない理由があったんだよ。

 龍騎くん。


 ぼんやりしたまま駅のホームに立っていたら、人の波に背中を突き飛ばされてしまった。
 朝の空気は少しずつ、夏と雨の気配を漂わせていた。だから少しだけぼんやりとしてしまって、突き飛ばされたその勢いで電車に乗った。ぐえ、と、情けない声が唇から漏れた。
 踏切で花を見かけてから、すでに2週間近く経っていた。もう6月に入った東京は、宮城よりも少し早く梅雨入りしそうだとニュースが伝えていた。
 もうすぐ夏がやってくる。そう思うと、少しだけ憂鬱なような、複雑な気分になってくる。そんな顔をしていたからだろうか、目の前にいる制服姿の高校生が、自分をじっと見ていた。
「あの」
 高校生は、龍騎の顔を覗き込みながら声を発した。ぱちぱちとまばたきをして、龍騎は「なに?」と首を傾げる。
 目の前の高校生は、制服がなかったら女の子と間違えそうな見た目をしていた。……それを、さんざん「女顔」と言われた自分が言うのもどうかと思うが。
「気分が悪いなら、使ってください」
 そう言われて差し出されたのは、青無地のハンカチだった。どうやら、気分が悪いと勘違いされてしまったらしい。……声は声変わりした男のそれそのものだ。少し羨ましい。自分は声も中性的だから。
「ああ、ごめん。……具合が悪いわけじゃないから」
 そうですか、と彼はハンカチを引っ込める。揺れる電車は朝の光を窓から差し込ませながら、目的地へと進んでいく。
「……なんだか、青い顔をしていたので」
 彼が再び口を開いた。
 心当たりはある。最近ろくに寝れていないから、そのせいだろう。実は頭が痛い。
「……地方から出てきたから、都会に不慣れなだけだよ」
 少しも話をしないうちに、電車のアナウンスが駅を告げた。彼はその駅で降りるらしい。降りる直前、「あの」と彼は口を開いた。
「よかったら、ここに来てください。……お話くらい聞ける人、いますから」
 そう言われ、何か名刺のようなものを押し付けられる。そのまま、彼は、
「女の人の上京は不安でしょうけど、その、何かお手伝いできるかもしれませんから」
 そう言って、人の波の中に飲まれていった。
 手元に押し付けられた名刺を見つめる。そこには石蕗の住所と、どこかの電話番号。そして、「逢坂涼生」という知らない名前が書かれていた。
「……訂正する暇もなかった」
 ぽつりとつぶやく。
「俺、男なんだけどなあ」
 やっぱり、男には見えないらしい。


 授業が終わったあと、なぜかスマートフォンに名刺の住所を打ち込み、地図を検索している自分がいた。だから、そのままの勢いで電車に乗ってしまった。
 石蕗。自分が住んでいるところの隣町だ。着いた場所は雑居ビルみたいなところで、2階が入り口になっているらしい。外付けの階段を登っていくと、ドアがあった。
 インターホンがないから、少しだけ立ち往生してしまう。そうしていたら、後ろから声をかけられた。
「お客さん?」
 振り向くと、いかにも「不良」という出で立ちの青年が立っていた。長い前髪で右目が見えない。彼は自分の後ろからドアを開けると、そのまま中に押し込んだ。
「涼生サン、お客ー」
 有無を言わせない。ちょっと強引だ。流されるままに中に入ると、思ったよりもちゃんとした事務所がそこにあった。デスクが1つ、そこで茶髪の男性が本を読んでいる。ソファーには灰色の髪の男性がいる。今朝の少年はいない。
 本を読んでいた男性が、本から顔を上げた。
「……依頼か?」
 静かな声だった。龍騎は「えっと」と声をつまらせてから、
「高校生くらいの男の子に、名刺渡されて。……」
 そういえば、俺、なんでここに来た?便利屋に頼むことなんて1つもない。そう、1つもーーーー。
 いや、あるな。
 頭の中で、父親から渡されている小遣いをざっと思い出し、口を開いた。
「便利屋に、探偵みたいなこと依頼するのも、どうかと思うけど……依頼が1つ」
 もう1度だけ話がしたい。それだけでいい。あの日の答えを、聞きたい。
「女の子を探してほしいんだ」
 ぱたん、と。彼は本を閉じた。そして、視線だけでソファーを勧められる。
「話を聞こう」


 どうして逃げてしまったのか。もう二度と話はできないかもしれないのに。
 罪悪感もあった。顔を合わせられない、そんな思いもあった。あの日顔を見てから、うまく息ができない。
 龍騎くんが悪くないのは知っていた。だって私が勝手に思ったことで、龍騎くんは何もしていない。友達として手を差し伸べてくれただけ。それを勝手に私が振り払っただけ。
 そして私は、手のひらの名刺を見る。
『女の子1人じゃ不安だろ? 何かあったら、ここを頼ってくれよ』
 不良みたいな姿の人だったけど、とても優しい人だった。踏切の向こうの龍騎くんを見て、逃げて、うずくまっていた私に話しかけてくれた人。
 もう1度話をしたい。
 お金はないけれど、もしかしたら、あとから少しずつ払う方法でも受けてくれるかもしれない。
 便利屋さんに、明日、お話をしに行こう。
「男の子を探してほしいんです」

 


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