「何かあったんだろ、お前」
そう彼が言ったのは、ある日の夕方だった。
6月の初め。時刻はもうすこしで終業だったが、八雲のデスクにはまだ大量の仕事が残っていた。彼はそれを一瞥してため息を付く。
「そんな顔をしていればすぐにわかる。……何があった」
彼は八雲の会社の、秘書のような仕事をしていた。名をゲイル。アメリカのアラスカ生まれだが、日本に馴染んですでに長い。この会社の古株だった。
「……同居人が、少し」
「ああ、あのやかましい男の息子だったか」
そういえば、ゲイルは龍源に会ったことがあるのだった。時折突然会社に押しかけては、ゲイルに追い出されている。
「ああ。……何か、思い悩んでいるようなのだが……」
「聞いてもいいのかわからない。……お前、距離を詰めたいのか取りたいのかどっちなんだ」
う、と言葉に詰まってしまう。ゲイルはその顔を見てから、
「だいたい、」
顔を近づける。
「いつも帰りが深夜の」
ぐさり。
「年の離れた家主に」
ぐさり。
「居候の10代が」
ぐさり。
「悩み事を気安く言えるものか」
だいぶ深々と突き刺さった。しかも4本も。
ゲイルはため息を吐いてから、書類をまとめたファイルをデスクに置いた。そのまま、オフィス備え付けのコーヒーメーカーに近付く。
「今日は早く帰って、交流する機会を設けたらどうだ。昔一緒に住んでいたとしても、長らく会っていなかったんだろう?」
それもそうだ。まともに顔を合わせる機会があまりないことに気付く。
「……寂しがらせていただろうか」
ぽつりとこぼす。コーヒーメーカーがコーヒーを作る、少しだけ大きな音が響き始めた。古い型のものだから、音も大きい。
「今更気付いたか大馬鹿者」
ゲイルの言葉は、いつも鋭い。だが、それに助けられたことが何度もある。彼も、ただの無礼でそういった言葉を発しているのではない。……自分が鈍いからだ。
目の前に、出来上がったコーヒーが出された。ゲイルの青い瞳が自分を見つめてくる。
「今日は残業を一切せずに帰れ。その仕事はまだ締切まで遠いぞ」
その言葉に頷く他ない。コーヒーをありがたくもらって、今日は定時に帰ることにした。
帰りの車の中で思い出したのは、まだ中学生の龍騎だった。
龍騎の母の葬式で、気丈に顔を上げていた姿。その合間にアイスを買って、公園で一緒に食べた。まだ暑い夏の盛り。青い朝顔が咲いていた。
ぽろぽろとこぼれだした涙は、朝顔の色を吸って、青色に輝いていた。海が奪っていったものは大きく、それでも、彼は海を嫌いにはならなかった。
海が好きな少年だった。埠頭から体を投げ出す姿はもはや名物で、誰一人咎める人はいなかった。すぐに顔を出して、上がってくることを知っていたから。
再び、今度は彼の親友が海に身を投げたと知って、八雲は不安になっていた。
命を奪うことはなかったとはいえ、龍騎が、海を嫌いになってしまったのではないかと。
それを証明するかのように、龍騎から海の話題を聞いたことがない。今までは、しょっちゅうのように聞いていたのに。以前の龍騎なら、「船に乗せて」と頼まれていた頃合いなのに、それもない。
海に行こうとも、ここ数ヶ月していない。まるで避けるように。
そう考えているうちに、家に着いた。駐車場に車を停めて、ドアの前まで移動する。ノブを少し回すと、鍵がかかっていた。
まだ帰っていないのだろうか。鍵を開けて、試しに「ただいま」と言ってみるも、返事はない。夕暮れの光が差し込む部屋の中は、少しだけ冷たい空気を溜め込んでいた。
嗚呼。
八雲は思う。
いつも、こんな部屋に帰ってきていたんだ。
寂しい思いもするはずだ、と少しだけ後悔する。これからは、なるべく早く帰ってきてあげないと。
とりあえず、帰りを待とう。龍騎の負担を減らすために、部屋でも片付けながら。
煙草が一本、空気に爆ぜた。
不良っぽい顔の青年は、白夜と名乗った。灰色の髪の男は榊木。そして、茶髪の男性が涼生というらしい。高校生は深空だそうだ。
「なるほど、高校の同級生ね。……知ってどうするんだ?」
榊木が聞いてくる。鋭い目つきだが、なんとなく怖いとは思わなかった。
「話がしたい。……する間もなく、転校していったから」
目の前にいる涼生が、静かな面持ちで龍騎を見た。
「……もう少し話を聞かせてくれ」
う、と言葉に詰まる。
花に関することは、あんまり知らなかった。頭を抱えていると、「そうじゃねえよ」と後ろからこづかれる。
「てめえも言葉が足りねえ。……お前の話が聞きてえんだとよ、この男は」
お前が、その花と、何があったのか。お前の感情はどうなのか。
そう言われて、龍騎は顔を上げる。涼生は静かにうなずいていた。
長くなりそうだ。けど、八雲はいつも帰りは深夜だ。だから、少しくらいならいいだろう。
静かに、龍騎は話し始めた。
「……高校1年生の、初夏だった」
彼女が、転校してきたのは。
話を聞かせてほしい。私の。彼に対してのことを。
昔を思い出すことは、私にとっては苦痛だった。それでも、その痛みを取り払うために、私は話し始めた。
「高校1年生の、初夏でした」
私が、転校したのは。
<BACK NEXT>