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 夕暮れが迫っていた。

 そこは一面の麦畑。金色の麦は夕暮れのオレンジを浴びて、より一層金色に輝いている。その中にある細い畦道に、自分は立っていた。ざわざわと揺れる麦たちの音が心地よくて、風を全身で浴びる。春の終わりの風が、髪を優しく揺らしていった。

 空はオレンジ色と紺色の2色。それが混じり合って、綺麗な色をしていた。東の空はすでに暗くなっていて、一番星が顔を出している。少しずつ、星が見えてくる時間だ。

 緑の香りを肺にたっぷり吸い込んで吐き出す。肺の中が綺麗に洗われるようだ。なんて心地良い、夕暮れ。

 緑の香りに、遠く風に乗って、美味しそうな香りがした。夕飯の匂い、好物のスープの匂いだ。見れば、少し遠くにある自分の家から煙が出ている。うちでは、少し古風に、石造りの釜でパンを焼くのだ。自分たちで収穫した麦で。パンを焼くいい香りも、じきに漂ってきた。

「――――!」

 誰かが名前を呼ぶ。後ろを見ると、誰かが立っているのが見えた。自分よりも背が高い男の子。彼は手を振り、背中を向けて走り出す。

 まって。

 無邪気に笑って、自分も走り出した。石ころだらけで走りにくい道だけど、もう慣れっこだ。真っ直ぐに、自分の家を、走っていく彼を追って、走る。

 太陽は眠そうに、西の空へ落ちていっていた。きっと太陽も、いい夢を見るに違いない。今日みたいなお天気だった日は、きっと。

 

 

 ゆっくりと目を開くと、木でできた天井が目に入った。何百回も、もしかしたら何千回かもしれないほど見た、自分の部屋の天井。見飽きたそれから目を離し、日差しが細く入り込む窓を見た。

 またあの夢を見た。どこか知らない家、麦畑、見たことのない誰か。幸せな夢だけれど、きっと自分の願いがあの夢を見せているんだろうと思う。――――だって、あんな風に走ったことなんて、1度もないもの。

 淡い色のカーテン、その隙間から朝の光が差し込んでいる。特に気に入っているわけでもないカーテンを開けて、部屋に朝の光を招いた。薄暗かった部屋が、一気に明るくなる。眩しい光に一瞬目を細めて、目を光に慣れさせるようにゆっくりとまばたきをした。

 別段意味をなさない時計。

 壊れてラジオが聴けないCDのプレイヤー。けれど、持っているのはクラシックしかない。どれもこれも飽きてしまった。

 本棚の中の本も、何度も読んだものばかり。もうページを捲る気さえしない。

 部屋の中にあるものは、ずっとずっと変わらない。まるで綺麗に作られた鳥籠みたい。

 ――――貴方は体が弱いから、外に出ちゃいけないわ。レナ。

 そう母親に教えられて、ずっと家で過ごしていた。

 たしかに、体が弱いのだ。母親の手伝いをしているとすぐ疲れてしまうし、風邪もひきやすい。物もたくさん食べられない。

 だから、外の子供みたいには遊べない、外にも出られない。一生この、鳥籠みたいな家で過ごすのだ。きっと、死ぬまで。

 窓の外の景色も、変わらない。変わるわけがない。唯一出られる「外」であるベランダへ、レナは足を踏み出した。

 春先の空気はまだ冷たく、冬の名残を残している。澄んだ空気が肺を満たしても、ちっとも気分は晴れない。まるで鳥籠のように仕切られた空間は、本棚の中に眠っているお伽噺を思い出させた。

 お城に閉じ込められたお姫様。外ではお祭りをしているのに、自分はそこに行けはしない。楽しそうな子供達を見て、ついにお姫様は外に飛び出す。

 ――――けど、私にそんな勇気はない。

 唯一の楽しみは、毎朝やってくる「彼」とおしゃべりをすること。数日前から彼はやってきて、いつもおしゃべりをしてくれた。今日もきっと、やってくるに違いない。

 レナはそれだけを楽しみに、そこにいた。後悔することと言えば、カーディガンを羽織って来ればよかったな、ということだけ。

 少しずつ、お寝坊な太陽が東の空から顔を出す。少しずつ空が明るくなってくる頃、ようやく姿が見えた。

 いつものように、軽々と壁を蹴ってやってくる、郵便配達の制服を着た彼。彼はベランダに降り立つと、

「レナちゃんだよね」

 彼では、なかった。彼とは似つかぬ赤毛が、朝の光に照らされながら、帽子の下で揺れている。

 声も出せずに困惑した瞳で見ていると、彼は「ああ」と声を出した。

「俺はレイキッド。アシュに、仕事を変わってほしいって言われてここに来たんだ」

 レイキッド。

 確かめるように繰り返すと、レイキッドと名乗った彼はにっこりとうなずく。

「はい、これ。……たしかに」

 レナの手に手紙を渡して、レイキッドはくるりと背を向けて去ろうとする。その後姿に、「待って」と声をかけた。ゆっくりと、レイキッドが振り向く。

「……少し、お話しない?」

 きょとんと、茶色の瞳が丸くなった。まるで子供のような瞳で少し考えたあとに、

「……仕事が終わったあとなら、あいてるよ」

 そう、彼はレナに言った。

「じゃあ、その時に。……待ってる」

 レイキッドは微笑んで、ベランダから飛び降りる。軽々と着地すると、手を振って去っていった。

 すっかりと姿を見せた太陽が、町並みを明るく照らし出していた。いつもよりも、輝いて。

 

 2時間ほどで、彼は戻ってきた。こんこんと窓を叩かれ、今度はカーディガンを羽織ってベランダへ出る。朝よりも少し暖かくなっているが、それでも春の陽気には程遠い。

「ごめん、待たせちゃったかな」

 ベランダに立つレイキッドが、苦笑しながら言う。ううん、と首を振ると、レイキッドは安心したように笑った。

「……アシュは、具合悪いの?」

 気になっていたことを聞いてみた。レイキッドは思い出すように斜め上を見つめると、

「ううん……そうでもない感じだったなあ。用事があるのかな」

 そっか。レイキッドの言葉に、レナは少しうつむいた。よほど彼に会いたかったんだろうな、そうレイキッドは思う。

「レナちゃんは、ここの子?」

 うん、とレナはうなずく。階下では、美味しそうなパンの香りがしていた。「Harvest」という名のパン屋だ。オレンジロードではちょっと有名で、サンドイッチはお昼前に来ないと売り切れてしまう。

「そっか、ここのサンドイッチ好きでさ。特に、卵のやつ」

 明るい声でレイキッドが言う。レナは嬉しそうに笑って、

「ありがとう、私もあれ好き。でも、ハムのやつもおすすめだよ」

「ハムかあ、美味しそう! 今度はそれも買おうかな」

 ベランダの柵に腰掛けて、レイキッドは思案するようにうなずく。その様子が嬉しくて、レナは次々とパンの名前を挙げた。

「食パンも美味しいのよ、それにパン耳のラスクも。チョコチップのパンも」

「うわあ、どれも美味しそうだなあ。お給料出たら全部買っちゃおう」

「安くて美味しいパン屋なら、うちが一番」

「言えてる」

「私も焼くのを手伝ってるの。もしかしたら、私が焼いたパンを食べてるかも」

「ほんと? どれもすっごく美味しいよ!」

 ベランダで、2人分の笑い声が響く。それをかき消すように、下の町並みは活気が出始めていた。店を開ける人、開店一番に店に入る人。仕事に向かう人。学校に向かう子供達の声。

 いつもどおりの、朝の光景。

 そのはずなのに、なぜか楽しく、微笑ましく思える。……何故だろう、目の前の彼はアシュじゃないのに。

 楽しく会話をしていたら、階下から声がした。母親の声だ。

「あ……ごめん、お母さんに呼ばれちゃった」

「お手伝いかな?」

 レイキッドの言葉に、レナはうなずく。レイキッドは笑うと、

「いってらっしゃい。パンを買って帰るよ」

 ベランダから降りようとするレイキッドに、レナは再び声をかけた。

「明日はアシュ、来れるかな?」

 レイキッドは少し考えて、「ごめん、わかんないや」と困ったように言った。そう、と、レナの顔色が曇る。

「あ……でも、これなかったら俺が来るよ。……それじゃ、だめかな」

 レナはレイキッドを見る。風に、赤毛が揺れていた。

「……うん、待ってる」

 頷いて、レナは笑った。

「レナー、ちょっと手伝ってー!」

 階下の声が大きくなる。「はーい!」と答えると、レナは部屋の中に入りながらレイキッドに手を振った。レイキッドは手を振り返すと、ベランダから軽々と飛び降りた。

 


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