5

 オレンジロードの朝は賑やかだ。店を開け始める人、行き交う人々の声が聞こえてくる。

 春先とはいえ朝は冷え込む。ほう、と白い息を吐き出して、レイキッドはレナを見た。

「じゃあ、幼い頃の記憶はないんだ」

 薄いベージュのカーディガンを着たレナは、小さく頷いた。まだ冷たい風が、レナの長い髪を揺らす。レイキッドの赤毛も、同じように揺れた。

「そっか……ああ、じゃあ俺悪いこと聞いちゃったな」

「ううん、平気」

 慌てるレイキッドに、レナは首を振った。

「覚えてないことは、たしかにちょっと不安だけど……そこまで気にしてないから」

 母親と暮らせていること。家からは出られないけど、それ以外は不自由なく生活できていること。今はそれさえあれば、満足だ。

 レナの様子に、レイキッドは「そっか」と苦笑する。背後では、朝の喧騒が一層強くなっていた。一部の店はすでに開いている。レナのパン屋も、店を開け始めていた。

「賑やかだね」

 レイキッドが言う。ベランダの柵に手を置いて、レナも「うん」と頷いた。

 学校に行くのだろうか、揃いの鞄を提げた子供達が駆け抜けていった。それを見送った母親たちが、道の隅で話しはじめる。仕事に向かう人、店に入る人。たくさんの人々が、そこにはいる。

「いいな」

 純粋に、レナはそうつぶやいた。

「私も体が弱くなかったら、あそこに行けるのに」

 近いようで遠い場所。歩いたらすぐに行ける場所なのに、自分には遠い。

「――、」

 レイキッドが口を開いたときだった。

 悲鳴が聞こえた。レイキッドとレナがはっと顔を上げる。恐怖の色を滲ませた悲鳴は、子供のもの。

「今のって」

 レナがベランダから見を乗り出して、悲鳴の聞こえた方向を見る。そこに、それはいた。

 家1つ分はあるだろうか。大きな球状をした生物が、そこにいた。その丁度中心には、大きな目が1つだけ付いている。あれは―――――。

「幽魔……!」

 レイキッドがつぶやいた。レナがそれを見て、「幽魔?」と首を傾げる。その様子を見ずに、レイキッドはベランダから飛び降りた。

「レイキッド!?」

 レナが呼ぶ。レイキッドはレナを振り返ると、

「危ないから部屋の中にいて!」

 そう叫び、レイキッドは逃げ惑う人々の中に入っていった。

「こっち! みんな、こっちに走って!」

 慣れたようにレイキッドは人々に声をかける。途端に、人々の恐怖の色が薄くなった。

「レイキッド! 今度も頼むぞ!」

「レイキッドくん! 倒してくれたらうちの商品割り引くよ!」

「ほんと!? 張り切るな!」

 人々の声を受け止めながら、レイキッドは避難を誘導する。その中に、見知った金髪が見えた。

「レイキッド、避難誘導は任せておけ。お前はあっちを頼む」

 彼はそう言って、レイキッドの肩を叩く。レイキッドは頷いて、「よろしくな!」と笑顔を見せた。

「こっちだ! 走れ!」

 金髪の男性の声に、人々は導かれるように走っていく。……ようやく戦えるスペースができた。

 レイキッドはポシェットの中から、箱状の物体を取り出した。立方体の形をしたそれを、ぽいと投げ捨てる。それは光を放ちながら、半透明の壁を作り出していく。壁は家や打ち捨てられた自転車の形に沿うように覆っていった。

「よし来い!」

 レイキッドは両の拳をこつんと合わせた。その瞬間、両手首につけられたリストバンドが形を変えていく。指ぬきのグローブの形を成したところで、レイキッドは地を蹴った。

「そりゃ!」

 ボール状の形をしたそれを、レイキッドは殴った。鈍い音が響く。ぱかっと、ボールが割れた。割れたそこからは、真っ赤な舌が見えている。

おあああああああああん

 低い咆哮を上げた。ボール状の生物を蹴り、レイキッドは距離を取る。民家の屋根に飛び移ると、今度はその屋根を蹴った。

 助走をつけるようにして、今殴った場所と同じ場所に狙いをつける。そして、また拳を一発。低い咆哮が、再び上がった。

 びき、と。拳の下で手応えを感じる。割れた。そこにはヒビが走っていた。に、と。レイキッドの口角が上がる。

「もう一発!」

 再び距離を取り、屋根を蹴って殴りかかる。びきん。ヒビが広がった。ボール状の生物から、また咆哮が上がる。

「これで最後だ!」

 重い一発が打ち付けられた。

 ばきん、と大きな音がして、幽魔の体がまっぷたつに割れた。笑ったのも束の間、割れた場所から何かが吹き上がっていくのが見えた。

「うわわっ」

 慌てて距離を取り、地面に着地する。ごろんと転がったそれを体から、オレンジ色のガスが吹き上がっていく。ぱちぱちとまばたきをして、レイキッドはそれを見た。

「なんだ、これ……」

 つぶやいたところで、名前を呼ぶ声が聞こえた。はっとして、箱状の物体を拾い上げる。半透明の壁は消えていき、キューブの光も消えた。

「やったみたいだな。あとは任せておけ」

 肩を叩くのは、先程の男性だ。「へ?」と声を上げて、レイキッドは彼を見上げる。

「そこのパン屋で誰かと話していただろう? 行って来い」

 あっ。

 レイキッドは声を上げて、慌ててパン屋のベランダに飛んだ。彼はそれを見てから、ボール状の生物の亡骸へと駆け寄っていく。

「レナちゃん!」

 レイキッドはベランダに降り立つと、部屋の中を見た。が。

 レナはベランダに立ったままだった。青ざめた顔で、宙を見つめている。「レナちゃん?」レイキッドがまた名前を呼ぶ。

「レナちゃん、どうしたの? だいじょう……」

 大丈夫?

 そう声をかけようとしたところで、レナは膝から崩れ落ちた。頭を押さえ、その場に倒れ込む。

「レナちゃん!!」

 レイキッドが駆け寄るよりも早く、レナの体は床に落ちていた。悲痛な悲鳴が1つ、朝の空に響く。

おああああん……

 悲しげな咆哮も1つ、朝の空に消えていった。


<BACK                                           NEXT>