兄の手に引かれて、私は家への道を歩いていた。でこぼこした畦道。脇に生えた草から、虫の声が聞こえている。石を蹴飛ばすと、一瞬だけ虫の声が止んで、ぴょんと小さな虫が飛んでいくのが見えた。
家からは夕飯の香りが風に乗って漂ってくる。くう、とお腹が鳴る。少しだけ恥ずかしくて、はにかんだ。
空は綺麗な夕暮れで、オレンジ色に染められていた。風は少し冷たいけど、握られた手が暖かくて気にならない。
今日の晩ごはんは何かな。
私は楽しそうに話す。兄は笑顔で「なんだろうね」と返してくれた。きっとスープだ。お肉もあるかな? 何気ない会話が、楽しくて嬉しい。
遠くから呼ばれる声がした。見れば家の前に母が立っている。夕飯に呼びに来たんだ。兄と私は目を見合わせて、同時に走り出した。
手をつないだまま走る。頬を、髪を、風がふわりと舞い上げた。
足は兄の方が早かった。私は遅くて、直に追いつけなくなって、そして。
手が、離れた。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
自分の部屋、その天井。それを、窓から差し込む夕暮れがオレンジ色に染めている。何度かまばたきをしてから、レナは身を起こした。
まだ少し、頭が鈍く痛む。ぐるぐるとたくさんのものが頭の中で回っていて、追いつけなくなる。
私のこと。
私以外のこと。
そうだ、私は……。
レナの思考を遮るように、階下から声が聞こえた。「母」の声だ。
まだベッドに縛られているような体を無理やり動かし、ベッドから降りる。そして、部屋からゆっくりと出た。
「すみません、驚かせてしまって」
店には、見たことのない男が立っていた。
癖の強い銀髪を、1つに縛っている。髪をまとめる翠色のリボンが、動きに合わせて揺れていた。
その横には、見知った顔がいた。レイキッドだ。レイキッドはレナに気付くと、苦笑して手を振った。
「レナ、貴方は部屋に」
「いいえ、レナちゃんにも聞いて欲しい話です」
母の声を、銀髪の青年はぴしゃりと遮る。リボンと同じ翠の瞳が、強く輝いた。
「幽魔の話を」
「幽魔とは魔力公害によって現れた、言わば『魔物』と呼べる代物だ」
じじ、と。煙草の火が爆ぜる音がした。
煙草を咥えて、煙をゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。吸い殻が山になった灰皿に灰を落として、彼は続ける。
「魔術道具の開発が盛んになってから、工場からは既定値以上の排気ガスと排気魔力が出るようになった。それにより生じたのが『魔力公害』……そして、公害で生まれた魔物がいる」
エルヴィスは彼のデスクにコーヒーを置いた。彼はそれを無言で受け取る。
「目は1つ、体表と血液がオレンジ色。主に人を襲うとされている。……それが、」
「それが『幽魔』、そこまでは……貴方はご存知ですね?」
銀髪の青年はレナの母を見て言った。
レナの母はレナに一歩近づいた。その瞬間、銀髪の青年が一歩前に出た。レナの母の足が止まる。
「……何が言いたいの」
震えた声だった。銀髪の青年は凛とした態度で、言葉を発する。
「カミーリャ家幽魔襲撃事件」
「カミーリャ家幽魔襲撃事件は、幽魔を語る上で外せない事件だろう」
そう彼は言った。エルヴィスもその言葉に頷く。
「幽魔に襲われ、一家の内娘を除いた全員が死亡。この事件をきっかけにして幽魔の存在、その驚異性は広く知れ渡ることとなり、国としても訴えを認め対処せざるを得なくなった」
彼は1枚の書類を手元に手繰り寄せる。その内容を目で追いながら続けた。
「生き延びた少女の名は、アイリ・カミーリャ」
「アイリちゃんは、その生き残りです。……ですが、もう1人生きていた」
母親の顔に驚愕の色が滲む。レナもまた、驚いた顔をしていた。
細く開いたドアの隙間から、風が入り込む。レナの長いピンクベージュをそっと揺らした。
「彼の名は、アシュ。アイリちゃんのお兄さん」
レナが小さく、呟いた。
「……私の、お兄ちゃん」
母親がレナを振り返った。レナは真っ直ぐに母親を見て、告げる。
「私は、アイリ。アイリ・カミーリャ」
レナというのは、本当の名ではなかった。
アイリ、それが自分の名。そして自分は、幽魔に襲われた家の、生き残り。
母親が膝をついたのが見えた。窓から差し込む夕暮れが眩しくて、部屋を、世界を、オレンジに染めていく。黒い影を、はっきりと、長く伸ばしながら。
「横にいる彼、レイキッドはアシュと知り合いでした。数日前、レイキッドはアシュから仕事を変わってほしいと言われ、引き受けると同時に俺に調査を依頼しました」
アイリはレイキッドを見る。レイキッドはその言葉に頷いた。
「アシュは……お兄ちゃんは、どうしたの?」
不安げにアイリが聞いた。銀髪の青年は1度、深く息を吸い込む。
「……アシュは、幽魔に体を乗っ取られてしまった。もう、止める方法は1つしかない」
どう止めるのか。まだこの世界について何も知らないアイリでも、容易に想像がついた。
「俺達は、アシュを止めに行きます。それが俺たちの仕事だから」
知っておいてほしかった。「レナ」に、そして「アイリ」に。
1度深く頭を下げて、銀髪の青年は去っていく。それを追いかけるように、レイキッドも扉から出た。
「安心して、ちゃんとやってくるから」
これ以上、罪は重ねさせないから。
扉が閉まる。後には、膝をついたままの母親――正確には叔母だ――と、アイリだけが取り残される。オレンジ色の夕焼けが、やけに眩しい。
「……貴方に、これ以上傷ついてほしくなかった」
小さく、叔母は言った。
「貴方は事件を覚えていなかった。何も知らなければ……外に出なければ、思い出すこともないと……傷つくこともないと、そう思っていたのに」
思い出してしまったのね、アイリ。
声が震えている。
ずっと求めていた自由は、こんな風に残酷なのかもしれない。傷つけられて、傷つけて。部屋の中に……鳥籠の中にいた方が、ずっと楽なのかもしれない。
それでも。
アイリはその横を通り過ぎて、ドアを開けた。呼ぶ声がする。それでも、アイリは走り出した。
白衣を脱ぎ、彼は「少し出てくる」とエルヴィスに声をかけた。
「はい、それはいいんですけど……どこへ?」
エルヴィスの言葉にため息をつきながら、彼は白衣を椅子の背もたれに投げ出す。代わりに、ドアの横にかかっている黒いコートを手にとった。
「サンプルの採取だ、あれじゃ足りない。……この件については、俺も興味がある」
コートを羽織る。その瞬間、彼の表情が准教授のそれからただの青年のものに変わったような気がした。
「気をつけて、ジェイクさん」
ああ。
そう言い残して、彼はドアから外に歩き出した。
黒い廊下を抜け、外につながるドアを開ける。オレンジロード特有の、通常では考えられないほど濃いオレンジ色が目に入り、彼は目を細めた。
「これも、公害が作り上げた光景か……」
ふ、と笑いながら彼は言う。
排気魔力は、オレンジ色をしている。それがまだ空に残っている故か、この町の夕暮れは前よりも一層美しく輝いていた。それがこのオレンジロードを、観光地としている。
「皮肉なものだ。多くの命を奪う橙色が、こんなに美しいとはな」
夕暮れの色が、彼の銀髪を美しく染め上げる。その横を、少女が走り抜けていった。長い長いピンクベージュを揺らして、青年の姿を一瞥することもなく、ただひたすらに。
そろそろ行かなくては。始まる頃合いだ。
白衣ではなく、黒いコートの裾をはためかせ、彼は少女の後を追うように歩き出した。