オレンジの光は朱く朱く変わり、全てのものを染めていく。
影を長く濃く落としていく太陽は、今にも沈もうとしていた。西の空へ落ちていく太陽を背負うようにして、それは立っていた。
路地裏の奥に立つそれは、辛うじて人の姿を保っている。それはそう見えた。まだアシュの姿をしているそれは、ゆっくりと、こちらを見た。
フレットは彼をよく知らない。だが、隣でレイキッドが息を飲む音が聞こえた。彼で、間違いないらしい。
長く伸びた爪は鋭く尖り、獣同然だ。ふう、と息を吐く唇から覗く牙も、こちらを睨むその瞳も、幽魔のそれをしている。
これ以上、犠牲が増える前に……彼が罪を重ねる前に、止めなければ。
フレットは首からペンダントを外した。フレットの瞳と同じ翡翠色をした結晶が揺れている。それは淡く輝いたかと思うと、一瞬にして形を変えていた。
大振りの刃。カトラスの形状に変わったそれを、フレットは握る。その横で、レイキッドもリストバンドをグローブへと変えた。
「行こう、レイキッド」
フレットの言葉に、レイキッドも頷く。
アシュが動いた。その瞬間、フレットも踏み込んでいた。
カトラスの刃と、獣の爪が同時に光を照り返した。鈍い音が響く。硬化したアシュの掌は、フレットの刃をしっかりと受け止めていた。
壁を蹴り、その頭上からレイキッドがアシュを狙う。アシュは素早く距離を離すと、レイキッドに向かって爪を一閃した。
はらりと赤毛が舞う。レイキッドの頬を爪が掠めていった。
ただの幽魔と違い、動きが機敏だ。それに加え、知恵もある。
しかも、アシュはまだ変異を続けていた。硬い鱗のような肌が、徐々に広がりつつある。全身をあの皮膚が覆ってしまえば、今以上の苦戦を強いられるだろう。
フレットはカトラスを握りこむ。カトラスは朱い夕暮れの光の中、その色彩に負けることなく翡翠色に輝いた。
翡翠色の光が散りながら、刃がアシュを薙ぐ。それは受け止めようとした掌を切り裂き、オレンジの雫を舞わせた。だが、フレットは眉を顰めた。浅い。
その背後から、レイキッドの拳がアシュの背中を殴った。鈍い音がして、アシュがよろめく。即座に距離を取りながら、レイキッドがアシュを殴った拳を小さく振った。
「ッ、硬い……っ」
アシュはよろめきながらも、その場に立ち直した。ごぽん、と。爪がさらに鋭く伸びていく。
がああああああああ
咆哮が、空に響いた。
屋根の上に立ちながら、彼はその様子を見つめていた。
黒いコートがはためく。夕暮れの色に染められた銀髪を風に揺らし、ジェイクはアシュの変異の様子を観察した。
「変異……幽魔が変異を起こすことは多々あるが」
つまり、あれは幽魔なのか。それとも。
考え込むジェイクの隣に、誰かが降り立った。ふわり、と。金色の髪が揺れる。
「あの青年は、元は人だそうだ。……今は、人と呼べないだろうが」
男の声に、ジェイクはちらりとそちらを見た。ベージュ色のスーツに身を包んだ男性は、ジェイクを見てにこやかに微笑む。
「お前か、ラーク。……どうせ目をつけるとは思っていたが」
「それはこっちの台詞だ」
ラークと呼ばれた男性は、ジェイクの一言で笑みを苦笑に変えた。
地上では、3人の戦闘が繰り広げられている。それを見守るように、ジェイクは地上に視線を落とす。
「幽魔と人間の血液がありえないほど混じり合っていた。自然にそうなったのか、それとも人為的なものなのかわからない。サンプルを採取しに来たが……」
徐々に押されつつある2人を見下ろす。
無理もない。自分がこのケースを見るのは初めてなのに、2人が知っているはずもないだろう。初めて対峙する相手に、苦戦を強いられないわけがない。
「手伝わないのか?」
ラークが言う。その顔に浮かんでいたのは、意地の悪い笑みだ。
「俺が行っても、大した戦力にはならないさ」
淡々と、ジェイクはそう呟いた。
爪と刃のぶつかる鋭い音。火花が散るほど激しくぶつかり合うその横から、レイキッドの拳が飛んだ。アシュの横っ面を捉えるが、怯む様子もない。
……いや。
元の肉体は人間のそれだ。魔力で覆われ変異しつつあるものの、素が人間の肉体であれば消耗しているはず。
つまりあれは、消耗していることすら気付いていないのだ。とっくに身体は限界を超えているだろう。その証拠に、変異のスピードが遅くなりつつあった。
見えない糸に操られているように、アシュは戦い続ける。ひび割れていても、劣化していても動く人形のように。まるで人形遊びだ。そうジェイクが呟いた。
やや動きが鈍くなった。
フレットはそう感じていた。
だが、鈍くなったとはいえ、決定打にはならない。相手に攻撃が届くほど鈍るのを待っていたら、先にこちらが消耗するだろう。
舌を打つ。繰り出される攻撃を避け、攻撃を仕掛ける。それを繰り返すばかりでは、らちがあかない。
距離を取り、カトラスを構える。その時だった。
「お兄ちゃん!」
少女の声が響いた。
見れば、路地の向こう側にレナの姿があった。走ってきたのだろうか、肩で息をしながら、彼女はアシュを見ている。
フレットはアイリに危ないと叫ぼうとして、気付いた。
アシュの動きが、あからさまに鈍った。腕も、足も、動こうとしない。揺れる瞳は、アイリを見つめていた。
「レイキッド、今だ!」
フレットが叫ぶ。レイキッドは弾かれたように走り、渾身の力でアシュに拳を叩きつけた。
オレンジの飛沫が、舞った。
ゆっくりと、アイリはそれに近付いた。
横たわるその姿は、たしかに自分の兄。アシュの姿だった。
「お兄ちゃん……?」
アイリが呼ぶと、ゆっくりとその瞳が開かれた。アイリと同じ色の瞳が、アイリを見る。アイリ。その唇が、そう動いた。
「ごめん、アイリ」
か細い声でそう言うアシュに、アイリは必死に首を横に振った。そんなことない。そう言いたいのに、喉がつっかえて言葉が出ない。
「レイキッドも、ごめん。……ありがとう」
レイキッドは軽く首を横に振り、「いいよ」と笑った。その笑みに、アシュも笑う。
「……アイリ」
アシュはアイリを見て、笑った。
「さよならだ」
ぽろりと、アイリの瞳から涙が溢れた。涙が頬を伝い、地面に落ちる。その、一瞬とも呼べる短い時間で、アシュの瞳は閉じられた。
とっくの前に陽は沈み、辺りにはその名残の光が残るのみだった。暗くなっていく夕暮れは、夜を呼んでいる。
朱と深い紺色が混じり合う空に、少女の泣き声が響いていく。フレットとレイキッドは、それをただ見つめていた。
夜が、来ようとしていた。