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 オフィスの窓の向こうは、すでに暗くなり始めていた。冬にさしかかっているからか、日に日に太陽の出ている時間が短くなっていく。先程まで眩しい西日が差していたオフィスは、すでに無機質な蛍光灯の光で満ちている。向かいのオフィスビルも、煌々と光っていた。あれが、今日の夜景を作るのだろう。

 今日の業務は少しだけハードだった。といっても、量が多いだけ。近日中に仕上げなくてはならない書類が多く、タスクを作るのに少しだけ苦労したくらい。あとはこれをこなすだけでいいのだが、今日は残業をしなくてはならないだろう。

 というのも、部下が少しやらかしてしまったのだ。致命的な失敗ではないが、失敗は失敗。部下の失態は上司の失態でもある。頭を下げて謝る部下に苦笑いで「次から気をつけろ」と言ったのは今朝の話。それからもう数時間が経過している。

 時刻はすでに17時を越えようとしていた。定時まであと1時間。そろそろ少し休憩でもしようかと、紅獅は一息ついた。

 立ち上がろうとしたその目の前に、何かが置かれる。ことん、と軽い音がして、それを見た。

 赤色のプラスチックホルダーに入った紙コップが置かれていた。中身はコーヒー。後ろを振り返ると、同僚が立っていた。

「おつかれ」

 いつもの無機質な声でそう言うのは、尾形成哉。通称「オナリ」。外に出ることがない、つまり営業や商談に出ない仕事のためか、髪は金色に脱色されている。ノーネクタイでふらつく彼の右手には、同じようにホルダーに入った紙コップがあった。

「多いな、いくつか引き受けるか?」

 そう言うが、それが優しさではないことを知っている。

 というのも、彼はワーカーホリックなのだ。趣味がなく、1日のほぼ全てを仕事で費やしている。ほどほどに仕事をするのならそれでもいいが、彼は許容量以上の仕事をしようとする悪癖がある。1度それで倒れて以来、彼に許容量以上の仕事をさせるのはご法度だ。

「結構だ、お前は定時で帰れ」

「なんだよ、ちょっとくらい頼ってくれてもいいだろ?」

「倒れられたら仕事が増える。お前、いくつ請け負ってると思ってるんだ」

 へいへい。

 そう肩を竦めて去っていく尾形を見送って、紅獅はため息を吐いた。そろそろあいつも、仕事以外の趣味を持ってもらいたいものだ。

 オフィス備え付けのコーヒーメーカーで淹れられたコーヒーは、いつもと同じ味がした。煙草が吸いたい気もしたが、それはもう一段落してからにすることにする。ブラックで飲むと知っているからか、ミルクも砂糖も入れられていない。いつから味の嗜好を知られていたのだろう? 一度も「コーヒーはブラック派だ」なんて言った覚えはないのだが。

 遠くでは、尾形が違う同僚と話をしている声が聞こえた。この声は園城だろう。同じように、「今日は定時で帰れ」と咎められていて、苦笑いをした。

 飲み終えたコーヒーを持って、紅獅は立ち上がる。コーヒーメーカーの隣りにあるゴミ箱へ歩み寄ってから、紅獅はホルダーから紙コップを取り外した。ホルダーはオフィス備え付けなので、使い終わったら返さなくてはならない。

 紙コップをゴミ箱に捨てようとして、ふと、黒いシミのようなものが見えた。

 くるりと、紙コップを回す。それはシミではなく、マジックで書かれた文字だった。

『金曜の夜、空いてれば食事でも』

 少し雑だが綺麗なその字は、尾形のものだと知っている。

 尾形を見ると、すでに彼はデスクでPCのキーボードをカタカタと鳴らしていた。そのデスクには大量の資料の山。あれが全て仕事だというのだから、呆れ果てる。

 今日は水曜日。金曜日の夜は、何の予定もない。

 少しだけ滲んだ文字を、少しだけ見つめた。

 

「それで、どうするつもりなんだ」

 休憩室代わりのカフェ。オフィスビルの1階に入っているスターバックスで、同僚である久留須は紅獅にそう聞いた。

 時刻はお昼時。スターバックスはにわかに混み始めた。社割が入っているからか、ここはいつでも混んでいる。目の前の久留須は、アメリカンスコーンのチョコレートをぱくりと頬張った。

「金曜は空いているから、そう連絡をいれるつもりだが……」

 昨日のことを思い出しながら、紅獅は言う。

 紙コップに書かれた食事の誘い。そのことについて、久留須に相談していたのだ。

「ならそう言えばいいんじゃないか?」

 口の端についたチョコレートを親指の腹で拭って、久留須は言う。

 たしかに、そうすればいいのだろう。金曜日は空いている、そう一言言えばいいだけの話なのだ。

 なのだが。

「食事の誘いくらい、LINEや口頭で言えば済む話だろう。何故紙コップなんかに……」

 尾形は一言も食事の誘いはしていない。「紙コップ見た?」なんてことも言われてはいない。気が付かなかったら、そのまま捨てられていた紙コップなのだ。何故そんな回りくどいことをしたのか。それが気にかかる。

「洒落っ気でも出したんじゃないか? ロマンス映画でも見たとか」

「あのオナリがか? 無趣味のオナリが」

「無趣味のオナリが」

 悪戯っぽく笑って、久留須はまたアメリカンスコーンをぱくりと食べる。……今更だが、あれが昼飯だろうか。そろそろこいつの食生活も一言咎めなきゃいけないかもしれない。

 自分の分であるバジルトマトのチキンサンドイッチを一口食べて、紅獅はため息をつく。久留須はキャラメルマキアートの紙コップをそっと取ると、

「なら、紅獅も同じ手を使えばいいじゃないか」

 同じ手?

 そう首を傾げる紅獅に、久留須は自分の分である紙コップを見せる。そこには、「GOOD DAY」と書かれている。絵文字がにっこりと笑っていた。

「……紙コップに書いて、渡せと?」

「そう」

 自分の分のコーヒーの紙コップを見る。「HELLO」と書かれた文字を見て、少し思案した。

「……しかし、気づかれなかったら」

「自分が同じことをしたのに、気づかないなんてあるか?」

 それもそうだ。同じことをしたのだから、同じ手を返されることも想定しているかもしれない。

 ホットのブレンドコーヒーを飲んで、紅獅は1つため息を吐く。

 混雑したスターバックスの喧騒が、ため息をかき消していった。

 

 木曜日、夕方。時刻は17時。

 昨日残業をしたおかげか、部下の失態分の仕事も、自分の仕事も粗方片付いていた。今日は残業をせずに済みそうだ。

 そろそろ休憩しようとして、ふと思い出し、尾形のデスクを見た。

 相変わらず、大量の仕事をてきぱきとこなしている。モカブラウンの瞳がPCを見つめていた。

 そろそろ休憩させるべきだろう。それに、やりたいこともある。

 紅獅は立ち上がると、コーヒーメーカーの前に立った。紙コップを1つ取り、名前を書く用に置かれたマジックを1つ手に取った。

『金曜は空いている』

 よう、丁寧に書く。その後コーヒーメーカーに紙コップをセット。コーヒーが出来上がってから、ちょうど文字が目の前に来るようホルダーにセットした。

 その後自分の分のコーヒーを入れ、2つのコーヒーを手に尾形のデスクへと向かった。目の前に、コーヒーを置く。

「そろそろ休憩しろ」

 いつもどおりの声が出ていただろうか、自信がない。

 モカブラウンの瞳が自分を見た。その後、ふっと笑う。こいつは笑うのが下手だ。10年以上同僚としての付き合いがあるが、こんな感じの、少しだけ困った笑いを浮かべる。

「はいはい、さんきゅーな」

 そう言って、尾形はコーヒーを手に取る。一口飲んだのを見届けてから、紅獅はデスクに戻った。遠くでは、久留須がこっちを見ている。ウインクした久留須を見て、紅獅は苦笑いをした。

 尾形は紙コップの文字に気付くだろうか。それが少しだけ気になる。だが、尾形がそれに気付いた様子を見るのが恥ずかしいのか、それとも気不味いのか、紅獅はコーヒーを手にしたまま休憩室に移動した。

 一本、煙草でも吸おう。

 

 金曜日、朝。

 何事もなく、尾形は出社してきた。いつも通りノーネクタイ。そろそろ寒いからか、ジャケットには袖を通していた。

 なにか言われるかと思ったが、ただ一言「おはよう」と返されただけだった。……また持ち帰り残業をしたのだろうか、少し眠そうだ。

 紙コップ見たか。

 そう言いたくなるが、相手の様子を少し見守ることにした。尾形はそのままデスクに座り、今日のタスクを確認し始める。黒い手帖はスケジュール帳ではなく、マス目のメモ帳だ。あいつは手帳を自作している。

 何やら手帳に何か書き込んで、

 ふと、目が合った。

 こちらを見た。ふ、と。困ったような笑みを浮かべる。そのまま、また、手帳に何か書き込んだ。

 紙コップに、気付いたのだろうか。

 そう思った。

 

 18時。定時の鐘が鳴り、同僚の黒江が「終わったー!」と嬉しそうな声を上げた。

 仕事道具を片付けて、紅獅はPCの電源を落とす。ちらりと見ると、いつもは咎められないと仕事をやめない尾形が、PCの電源を落として立ち上がるのが見えた。

 こつこつと、革靴の音を立てて近付いてくる。尾形は紅獅を見ると、

「俺の車でいいか?」

 そう、聞いてきた。

「……え?」

 そう返す。尾形はばつの悪そうに頭を掻くと、

「あー、土日ずっと車残しとくのもアレか。じゃあ一旦マンション帰って、その後俺の車で移動しよう」

 食事の件を言っていることは、すぐにわかった。

 頷いて、紅獅も立ち上がる。「じゃ、そうすっか」と尾形は言って、鞄を手に歩き出した。

 それを追いかけて、紅獅もオフィスを出た。

 一度車で会社を出て、マンションに戻る。紅獅と尾形は同じマンションに住んでいた。それも、部屋が隣。そのため、割り当てられた駐車スペースも隣同士だった。

 一度車を止めて、その後、尾形の車に乗る。尾形の車は赤色のクライスラーだ。最近のモデルのため、運転席は日本車と同じ右ハンドル。助手席に乗り込むと、エンジンがつきっぱなしの車内では洋楽が流れていた。

 意外だ、何も流していないと思っていた。そういえば、尾形の車に乗るのは初めてだった。尾形を自分の車に乗せることはあっても、乗せられることはなかったのだ。

「予約してっからちょっと飛ばすぞ」

「え、待て。予約してたのか!?」

 その声と同時に、車が走り出す。尾形は片手でハンドルを握って、片手でシャツのポケットから煙草を取り出した。

「ああ」

 悪びれずそう言って、シガレットを咥える。慣れた手付きで今度はオイルライターを取り出して、火をつけた。キン、と。金属の音が響く。

「私がアレに気づかなかったら、どうするつもりだったんだ!?」

「そりゃまあ、キャンセルするか、土壇場で都合のつく相手引っ張るかだろうな」

 甘いキャスターの煙が漂った。

 呆れ返って何も言えない。気付いてよかった、と紅獅は息を吐いた。窓が細く開く音が聞こえる。ふわりと、煙と一緒に冷たい空気が流れ込んだ。

「……今度から確実に誘ってくれ」

「はいはい」

 笑いのまじる声が聞こえた。見れば、尾形は咥え煙草でハンドルを握っている。暗くなった窓の外は、それでも明るい。東京の夜は、こんなものだろう。赤いテールランプが、尾形を一瞬照らして走り去っていった。

 

 

 着いた店は、そこそこ高めのフレンチだった。これがキャンセルされていたと思うと、ぞっとする。キャンセル料も馬鹿にならないだろう。いくら良い給料をもらっているとは言え、捨てるにはもったいない金額だ。

 料理はすでに決まっているらしい。秋の旬物を使ったコースだ。席に座るとまず、飲み物を聞かれた。

「飲んでいいぜ、運転手は俺だ」

 そう言うので、ワインを頼んだ。尾形は烏龍茶。ウェイターが引っ込み、程なくして飲み物が運ばれてきた。

 赤ワインを目の前で注がれる。尾形はグラスに入った烏龍茶が置かれるだけ。ラベルを見る限り、年代物だった。

「……随分良いところだな」

「そこそこだよ」

 尾形はさらっと答える。

 まずはアミューズが運ばれてきた。薄くスライスされ揚げられたじゃがいものチップと、塩鱈が添えられたブランダードだ。

 食事にあまり興味も関心もない尾形だから、目で楽しむこともせずぱくりと食べる。食事マナーだけはなっているが、食べて「美味しい」の一言もない。

「……美味いな」

 代わりに紅獅がそう言うと、「そうだな」と一言返ってきた。

 ワインも絶品で、程よい甘味と酸味が良い。ゆっくりと味わうと、尾形がこちらを見ていた。

「……なんだ?」

 そう聞くと、尾形は「んーん」と首を振った。なんでもない、ということらしい。

 その後も。

 くぬぎ鱒のショー・フロワ仕立て、根セロリのピュレ。

 帆立貝のグラタン、など。

 次々と料理が運ばれていくるが、尾形は終始真顔で食べるのみだった。味を褒めるのは紅獅で、それに頷くだけ。

 何故、食事に誘ったのだろう。

 つくづく、疑問に思う。ほとんど会話もされないまま、無言で食べるだけ。店内に流れるジャズと、他の客の会話だけが聞こえていた。

 メインディッシュが運ばれてきたところで、紅獅はついに口を開いた。

「何故、食事に誘ったんだ」

 モカブラウンの瞳がこちらを見る。尾形はすこしだけ窓の外を見た。東京の夜景が広がっている。赤い東京タワーが小さく見えた。

「……から」

 小さな声が聞こえた。「え?」と聞き返す。尾形は1つだけ息を吐いて、今度はもう少し大きく、言った。

「お前と飯が食いたかったから」

 文句のない所作でステーキを切り分け、口に運ぶ。真顔でそれを咀嚼して、飲み込んだ。

「……それだけ?」

 紅獅は問う。

「そんだけ」

 尾形は答える。

 少しの沈黙のあと、紅獅はため息を付いた。

「なら、あんな回りくどい誘い方をしなくたってよかっただろう」

 そんな回りくどかった?

 尾形は言う。ああ、と頷くと、尾形は少しだけ苦笑した。

「わかったよ、次からちゃんと誘う」

「そうしてくれ」

 ステーキを切り分けて、口に運ぶ。肉本来の甘味と香ばしさ、それにソースの酸味が絡んでいる。本当に、ここの料理が美味しい。……本当に、キャンセルされていたらと思うとぞっとする。

 尾形は食べる紅獅の姿を見ていた。紅獅の姿を見ながら、少し微笑んだ気がした。

 

 車はゆっくりと東京の街を駆けていく。車内のBGMは洋楽。ブリトニー・スピアーズがお気に入りらしい、よく流れていた。

 夜景とテールランプ、ヘッドライトが窓の外を流れていく。また、尾形は煙草に火をつけた。紅獅も、ラッキーストライクに火をつけた。

 2つの紫煙が車内を舞って、細く開いた窓から流れ出ていく。代わりに、冬の初めの空気がふわりと流れ込んできた。

「なあ」

 ふと、尾形が小さく口を開いた。

「また誘っていい?」

 ちらりと、煙草を咥えたまま紅獅は尾形を見る。尾形は煙草を咥えたまま、フロントガラスの向こう側を見つめていた。

「……今度は、ワンランク落とせ」

 それだけ紅獅は言う。はは、と尾形は笑って、「わかったよ」と頷いた。

 甘いキャスターの香りが、ラッキーストライクの煙と混ざった。

 

(10月の終わり、それは紙コップの誘いから)