むかしむかし、この場所は荒れ果てて草も木も育たない場所でした。地面も風も凍っていて、生き物たちは死に絶えていました。
それを哀れんだ神、ベルレは、この土地にひとつの種を植えました。それはまたたく間に成長し、大きな大きな大樹になりました。
ベルレはその大樹に、力を授けました。授けられた力は、豊穣の力。命を育む力でした。
大樹の周りは、ベルレに与えられた豊穣の力によって、美しい森へと変わりました。様々な命が育まれ、人も動物たちも住みやすい場所になったのです。
しかし、豊穣の力も万能ではありませんでした。あまりに命を生み出すので、森にはどんどん草木が生え、陽の光が地面に届かないほどになってしまいました。
これでは森が枯れてしまう。そう思った1人の男が、大樹に語りかけました。
「大樹よ、このままでは森が枯れてしまう。私がこの森を護ることにしよう。だから、あなたの力を分けてくれ」
大樹は男の言葉を聞き入れ、豊穣の力を分け与えました。男はその力を使い、木々を刈り、草を刈り、森を整えました。
男の仕事に感動した大樹は、男にもう1つ分け与えました。それは、男を木々と同じ存在にし、数百年の長い時を生きることでした。
男と同じ存在は少しずつ増えていき、今では「ヒューレ」と呼ばれています。そしてこの大樹は、神の名前をとり、「ベルレの大空樹」と呼ばれています。
私達ネフリティス王国のベルレの大空樹、そしてヒューレは、こうして生まれたのです。
――――「ネフリティスのお話」より、「ベルレの大空樹とヒューレ」
別段彼にはやりたいこともなく、生きる意味さえも持ち合わせてはいなかった。
他の生き物たちのような激しい情動もなければ、欲望もない。そのため彼は長い間、まるで植物のように日々を過ごしていた。
いつものように、彼はその日も店を開けた。ようやく雪の溶け切った春先だが、ネフリティスに吹く風はまだまだ冷たい。元々北側に位置する国ではあるが、ヒューレの森からこの町はずいぶんと離れてしまっているからだ。
やや湿り始めた風の中に、薬草を束ねたものを吊るして乾かす。独特の強い匂いがふわふわと風に漂ったところで、彼の店に少年が訪ねてきた。
「アーベント、いつものちょうだい」
走ってきたのか、息を弾ませながら言う彼は、ここから少し歩いた場所にある家の子供だ。アーベントと呼ばれた彼は「はいよ」とにこりともせずに店に招き入れた。
「いつものっつーと、ばあちゃんの咳止めか?」
「そう。そろそろなくなるから」
少年はちょこんと椅子に座ると、ばたばたと足を動かしながら待つ。アーベントは家の奥へと入ると、薬草でごったがえした倉庫変わりの部屋へと入った。
いつもの薬草をいくつか取ると、丁寧に細かく刻んでいく。それを見つめながら、少年は言った。
「なあ、アーベント。なんでアーベントは頭にいっつも布巻いてるの?」
ん? と、アーベントは葉を刻む手から目をそらさずに首をかしげる。少年は足をばたつかせて、
「頭を見せたくない事情があるんじゃないかって、母さん言ってた。もしかしたら、ヒューレかもって」
ふうん。アーベントはそっけなく言うと、刻み終わった葉を丁寧に袋に詰めていく。刻まれた葉の香りが、部屋の中を満たしていく。
「でも、そんなわけねえよな。ヒューレはほーじょーの力を持ってるんだろ? だったら、薬草が切れてて売れないなんてねえもんな」
「うるせえ」
短く言ってから、アーベントは薬草を詰めた小さな袋を少年に投げ渡した。少年はそれと器用に受け取ると、アーベントの手に銅貨を落とした。それを数えてから、ようやくアーベントは少年を見た。
「たしかに。それじゃ、気をつけて帰れよ」
「はあい。またね、アーベント」
少年はアーベントに手を振ると、店を出ていった。そのまま走って家へと帰る少年を見送ってから、空を見上げた。
薄い青の空には、薄く引き伸ばしたような雲が浮かんでいる。吹く風は冷たいが、昇り始めた太陽は暖かい。雲読みのインテリが、しばらくは暖かい日が続くと言っていたのを思い出した。
そろそろ、新しい薬草を調達するのに良い頃かもしれない。今日は森に入ってみるか。
アーベントは店の中に入ると、少なくなっていた葉を確認するために再び倉庫の中に入っていった。
ぱき、と。踏んだ枝が折れた。
傷薬になる草、料理に使う香り付けの葉。これから必要になる虫よけの葉をいくつか採ってきたアーベントは、森の出口へと歩いていた。
少し深く入りすぎたかもしれない。アーベントは空を見上げて、布越しに頭を掻いた。空はすでに橙色に染まっており、足元は暗くなり始めている。夜の森は慣れているが、できれば明るいうちに帰りたかった。
春先の森は、まだしんと静まり返っていた。時折、鳥の鳴く声がこだましている。それ以外は、アーベントが歩く足音しか響いては来ない。
木々はまだ葉をつけておらず、時折冬でも葉を落とさない木がちらほらと見えた。足元にはようやく芽吹き始めた草たちがうっすらと生え、寒そうに凍えている。そろそろ、熱冷ましの薬草も採り頃かもしれない。また今度森に入ってみよう。
そう考えたところだった。
遠くから聞こえてきた声に、アーベントは思わず足を止めた。
森の中で、一番聞きたくのない声が聞こえてきた。聞き間違いか、そう思って耳を澄ます。静寂が支配する森の中で、また、その声が聞こえた。
あおおおおん……
狼達の声が、たしかに聞こえる。春も近づき、餌を求めて森をうろついているのだろう。ち、と小さく舌打ちをして、アーベントは足早に歩き始めた。
できればご対面はしたくない、自分が彼らの餌になってはかなわない。しかし、そんな願いとは裏腹に、声はどんどんとアーベントに近付いてくる。失敗したな。素直にアーベントはそう思った。
森の出口にほど近い場所で、がさり、と。その音は聞こえた。ぱきぱきと、踏まれた枝が折れる音がする。ゆっくりと振り返ると、そこにそれはいた。
黒い毛を逆立てているのは、紛れもなく狼だ。獰猛なその生き物は、ぐるると低くうなりながら、アーベントを睨めつけている。ち、と。またアーベントは舌を打った。
一匹ならまだしも、狼達はどうやら3匹いるらしかった。ゆっくりと近付いてくるそれに背中を向けず、アーベントは後ずさった。
青い匂いをはらみ始めた風が吹き抜けていく。頭に巻いた布の端が風に揺れて、再び肩に落ちた瞬間に、狼は動いた。
四足で地面を蹴り、アーベントに向かっていく。アーベントはぐるんと前を向くと、走り出した。
幸い森の出口はすぐそこだ。運が良ければ、狼達に追いつかれる前に森を出られるだろう。
しかし、追うことに長ける狼達は、ぐんぐんとアーベントとの距離を詰めていく。目の前に立ちはだかるように生えた木を避けたところで、狼は後ろ足で強く地面を蹴り、アーベントに襲いかかった。
鋭い牙が、足を捉える。がくんとアーベントの身体が崩れ、地面に倒れ込んだ。そこに、残りの狼達も追いつく。強く噛まれた足から、血が滴り落ちた。
喉笛に食いつかれたら終わりだろう。アーベントは腰に吊るした袋から、手探りで数枚の葉と、適当に押し込んだマッチの箱を取り出した。その腕に、狼が食らいつく。なんとかそれを落とさないようにしながら、アーベントはマッチを擦って火をつけた。
暗くなり始めた森のなかに、マッチの頼りない火が灯った。それを、まだ乾ききっていない青々とした葉に押し付けた。
強い匂いがあたりに漂う。畑に撒くように採ってきたそれは、強い臭いがする虫よけの葉だ。その臭いは動物さえも嫌うため、虫よけと同時に害獣も避けられると農家に好まれている。
つんとした臭いに、狼達がぐるるとうなりながら離れていく。アーベントはそれを草の生えていない土の地面に落とすと、ゆらりと立ち上がった。
もうもうと上がる煙は、しばらく鼻の良い狼達を避けてくれるだろう。アーベントは傷ついた足を引きずりながら、森の出口を目指した。
森を出て町についたころには、すっかり日は落ちていた。町の外を歩く人影はなく、家には明かりがついている。その中を、アーベントはよたよたと歩いていた。
角を曲がり、家に近い路地裏に入ったところで、アーベントはぐらりと倒れた。傷が熱を持ち始め、鋭く痛んでいる。足と腕からは絶えず血が流れ落ち、服を汚していた。
食いちぎられたわけではないが、もしかしたら太い血管をやられたのかもしれない。このままでは血を失い、やがて死んでいくだろう。早く血を止めなければ……。
……生きてどうする?
ふと、そんな考えが頭をもたげた。
今まで、特にやりたいこともなく、生きる意味もなく、ただ日々を無為に過ごしてきた。同じ町に長く留まったことはなく、自分の存在を無味無臭に抑えて生きていた。
……このあたりで、眠ろうか。
朝になれば、死体は見つけてくれるだろう。自分の秘密も明らかになるだろうが、それはさして問題ではない。
ゆっくりと目を閉じる。冷えた風が妙に心地良い。このまま、深く眠れそうだ。
……がさりと、音がした。
目を開けて、音がした方向を見る。月が雲に隠れ、暗く闇に沈んだ時間では、はっきりとその姿を見ることは出来ない。だが、背格好からして子供に見えた。
「……どうしたのですか?」
幼い声、少女の声だ。少女はアーベントに駆け寄ると、息を呑んだ。
「……怪我を、しているのですね。待ってください、今止血を……」
幼い声とは裏腹に、言葉の端々には賢さが見えた。少女は辺りを見回して、何かを探している。やがてアーベントの頭を見ると、細い腕を伸ばした。
「ごめんなさい、使わせてもらいますね」
言って、彼女はアーベントが頭に巻いている布を解いた。
ぱらりと、布に巻き込んだ髪がばさりと落ちる。その瞬間、雲の隙間から月が顔を出した。欠け始めたばかりの月は、青い光で町を照らしていく。
深い緑の髪が見えた。夏の日の木々の葉と同じ色をした髪に、少女は驚いたような顔をする。ヒューレ。そう少女はつぶやいた。
豊穣の力を持ち、数百年を生きるヒューレ。その人々は、皆、緑の髪をしていることで知られていた。
アーベントは少女を見て、首を振った。何も要らない。そう示したはずの仕草は、少女には伝わらなかったようだ。
「……今、治します」
そう、彼女は言った。
傷のある足に、小さな手を乗せる。冷え切った手の感触がして、それは次の瞬間、ほのかな暖かさを持った。
す、と。痛みが消えていく。足から流れ出る血は止まり、しびれていた痛み以外の感覚が戻ってきた。アーベントは深い青の瞳を開き、少女を見た。
少女が手を離す。無残に引きちぎられた服の下に、傷はなかった。今度は、アーベントが呟く番だった。
「…… 同士 」
彼女はアーベントを見て、ふるふると首を振る。月明かりに照らされた少女の髪は、不思議な色合いをしていた。まるで金色に緑を混ぜたよう。緑がかった金色の髪が、揺れた。
「……っ、馬鹿野郎。その力を、そう簡単に使うんじゃねえ。わかってるのか」
細い手首を掴む。血で汚れた手は、少女らしい細さだ。
「大空樹の加護は、森以外の場所で使ってはいけない。お前だって何度も……」
何度も教えられたはずだ。
そう言おうとしたときだった。
ぼろぼろと、少女の瞳から涙がこぼれた。花色の瞳から、透明な涙がいくつもこぼれ落ちる。そのうち、「ひ、く」と喉の奥から音が漏れ始める。
「だ、だって、怪我をしていて、わたし」
ぼろぼろと、少女は泣き出す。ぽたりと落ちた涙が、腕についた血を洗い流していった。
アーベントはぱちぱちとまばたきをすると、「あ、おい」と焦ったように声を出す。細い少女の肩を掴んで、軽く揺さぶった。
「泣くな、おい。別に泣かせるつもりじゃ……おいってば」
月夜に、少女のかすかな泣き声が響く。アーベントは痛みの消えた身体で立ち上がって、ため息を吐いた。
青白い、欠け始めたばかりの月が、2人の出会いを静かに見つめていた。