いつ見ても、きらびやかで美しい城だ、
そう思いながら、アインレーラは長い長い廊下を歩いていた。左右には規則正しく置かれた白い柱。柱には、美しい装飾の施された蝋燭立てがつけられ、灯りをともしている。城を基調にして造られた城は、窓の外の緑によく映えていた。
ネフリティス城。現在の国王であるシニセスが建てさせた城は、「ヒューレの森」と呼ばれていた森の中に計3つある。
国王と第一王子、第一王女が住む第一王宮。
それ以外の子息が住む第二王宮。
来賓の客間等がある第三王宮。
それぞれの距離は馬で数刻ほど離れており、第一王宮は森の最奥、「ベルレの大空樹」を内包する形で建てられているため、森の外からはよく見えない。だが、第二王宮は城下町側に建てられているため、町からもその姿がよく見えた。
長い廊下を超えると、ようやく大きな観音開きの扉にたどり着く。アインレーラに気付いた近衛兵が、「アインレーラ様のお着きでございます!」と声を上げ、扉をゆっくりと開いた。
何度見ても、この光景は壮観だ。扉を開いたそこには、玉座がある。その後方、王を護るようにそびえ立つのは、「ベルレの大空樹」だ。大空樹が落とした枝で編み上げたという玉座に座る王は、30に届かないほどの若い見た目をしている。しかし彼は、すでに100年の長い年月、この国を治めている。
冷ややかな目で、シニセスはアインレーラを見る。アインレーラは一礼すると、その場に跪いた。
「アインレーラ・カイ・シュテルテ、ここに」
うむ、も、そうか、も。返事を何一つすることなく、シニセスは「報告を」と促す。アインレーラは「はっ」と短く頭を垂れた。
「報告いたします。アリアドネ姫は、チェルルの町におり……」
言ったところで、シニセスは「よい」と短く遮った。
「結論だけ聞かせろ」
アインレーラの胸に、違和感が降りてきた。普段はここまで結論を急がせず、報告を聞くお方であるはずだ。なのに、ここまで急くのは何故だろう。
その違和感を圧し殺し、アインレーラは短く告げた。
「……道中、『空樹の枝』と名乗る輩の襲撃に遭い……命を、奪われました」
重い沈黙が、玉座の間に降りる。シニセスは「そうか」とだけ言った。
これで、諦めてくれるだろうか。ほのかな期待が、アインレーラの胸で膨らむ。シニセスは少し思案した後、
「……空樹の枝というのは、山賊か」
そう、アインレーラに問いかけた。アインレーラは頭を垂れたまま答える。
「山賊ともつかないようです。ヒューレのみで構成された、義賊、と言えばいいでしょうか……」
ヒューレ、と。シニセスは繰り返した。その声に冷たいものが混じったのを、アインレーラは聞き逃さなかった。
「ヒューレのみの、か」
重たく響くその言葉に、「はい」と頷く。ふん、と。鼻を鳴らす音が聞こえた。
「ヒューレ、そうか……我が娘の命を奪った罪、購ってもらわねばなるまいな」
はっとして上げそうになる顔を、どうにか抑える。短く「下がって良い」と告げられた声に、アインレーラは一礼してその場を去る。
しくじったかもしれない。アインレーラは長い廊下を歩きながら、今後の出方を考えていた。
「ネモってさあ、いっつもその布頭に乗っけてるよな」
ネモはきょとんとした目で、友人を見た。
チェルルの町は、いつもと変わらない様子だった。数日前、朝になって、帰ったと聞かされていたアリアドネがいたのは驚いたが、「少し親に会っていたのを、アーベントが勘違いしちゃって」と笑っているのを聞いて納得した。
アーベント、ちょっと早とちりなとこもあるんだ。
そう笑うと、アリアドネも笑っていた。
友人であるレノはからからと笑いながら、ネモの布を引っ張った。ネモは慌てて頭を押さえ、「やめろよ」と離れる。レノはそれでも、からかうのをやめないようだ。
「どーせそれ、アーベントの真似してるんだろ」
「なっ、してねえよ!」
「してるしてる。頭に布巻いてるやつなんて、アーベントしかいねえし」
してない! と、ネモは怒った顔で言う。レノはその様子を笑い、「アーベントのまねっこー」と更にネモをからかった。
あわや喧嘩になりそうな様子を遠くから見ていたのは、アーベントだ。森で採った薬草を抱えたアーベントは、子供たちの様子を見つめながら、数日前のことを思い出していた。
アリアドネとルーベラが帰ってきてから、少し、話をした。
途中で「空樹の枝」に襲われたこと。アインレーラたち騎士団が応戦しているうちに逃げてきたこと。アインレーラが、自分たちを見逃したこと。
「あの人、最初からアリアドネ様を逃がす気だったんじゃないかしら。……私はそう思うわ」
ルーベラが言う。アリアドネもその言葉には頷いた。
腹の中が見えない男だとは思っていたが、そんなことを考えているとは思いもしなかった。最初のうちは警戒したが、数日経った今でも、アインレーラや騎士団がこの町に来たとは聞かない。どうやら、本当に見逃してくれたようだ。
だが、そろそろ悪目立ちする頃だろうと、アーベントは考えていた。同じように頭に布を巻いた男、騎士団。それぞれが立て続けに家に訪れていると、町の人々は勘付いている。これだけ小さな町なのだ、勘付かない方がおかしい。
そろそろ、荷物をまとめるか。ため息をつきながら、アーベントは思う。悪目立ちするのは好きではない。それに、ここに来てからすでに数年は経っている。長居しすぎているのだ。
居心地のいい町だったが、仕方がない。森を出るということは、そういうことだ。
老いることもなく、人間から見たら不可解な術を使う。人間とは違うもの、ヒューレ。それを人間は「異質」と捉える。人間は異質なものを奇異の目で見て、遠ざける生き物だ。自分はいいとしても、アリアドネをその目に晒したくはない。
薬草を抱え直したところで、声が聞こえた。ネモとレノが、ついに取っ組み合いの喧嘩をし始めたのだ。仕方ないな、とそれを見つめて、だがそれを止めることはせずに歩き出した。
声に驚いたのか、店からはアリアドネが飛び出して来ていた。喧嘩をする2人を見て、アリアドネが慌てている。
「アーベント、あれは、止めなくてもいいのですか!?」
半ば自分が泣きそうになりながら、アリアドネは言う。アーベントは苦笑を浮かべた。
「子供のうちはな、いくらでも喧嘩するべきだ。大人が止めるのは野暮ってもんだよ」
アーベントが言うように、大人たちは皆、喧嘩に気付いていながらも止める様子はない。ただ、子供たちを見守っている。
「何故、ですか? 怪我をしたらっ」
「怪我をしたら、手当してやりゃいい。そのときにわけを聞いて、間違っていたら正してやればいい」
家の中に抱えていた薬草を置いて、アーベントはもう一度外に出る。髪を引っ張ったり、爪で引っ掻いたりしている子供たちの喧嘩を見つめながら、アーベントは言った。
「殴られたり、殴ったりしたときの痛み。言葉で傷付けられた痛み。そういうものはな、子供のうちに知っておいた方がいい。どちらもすぐ治るし、後を引きづらい。それを知らないで育てば、人が傷付いたことすらわからない鈍感になっちまう」
疲れたのか、どちらも動きが鈍ってきた。そろそろ喧嘩も終わるだろう。見れば、モナも何も言わずに、ネモの喧嘩を見ていた。しょうがないね、そんな顔で。
お互いに捨て台詞を吐いて、とぼとぼと帰っていく。それを見届けて、アーベントも家の中に入った。追いかけて、アリアドネも家に入る。
「傷に良い薬草があったな、それをあとで届けてやろう」
はい。そう返事をしながら、アリアドネはもう一度、子供たちが喧嘩をしていた光景を思い出していた。
喧嘩など、したこともなかった。だから、殴られた痛みがどんなものなのか、知らない。
それに、姫として大事に育てられた自分は、言葉で傷付いたこともない。言い争ったことも、暴言を投げられたこともない。
痛みを知らない。
その言葉は、じくじくと胸に痛みを残した。
数日後、町に王からのお触れが届いた。
第五王女が亡くなられた、黒の旗を掲げよ。
ネフリティス王国では、王家の者が亡くなった際、町では黒の旗を掲げる。それは死を悼み、喪に服す意の表れとしての慣習だった。
黒の旗はモナが作った。アーベントは森に行き、布を黒く染める良い薬草を採ってきた。それは町の入り口に掲げられ、その日は皆、第五王女の死を悼んで過ごした。
アーベントは少し微妙な顔をして、その様子を見ていた。
なるほど。あの騎士は、アリアドネをあの時死んだことにしたのだ。そうすることで追手をなくし、アリアドネを逃した。
ならば何故、自分の元にやってきたのか……そこがわからない。死んだことにするのであれば、ここまでわざわざ来なくともよかったはずだ。
横でちらりと見たアリアドネは、黒い旗を見上げながら、少しだけ寂しそうな顔をした。
「……死んだことにされるのは、やっぱり嫌か」
アーベントが言う。アリアドネはアーベントを見上げて、少しだけ悲しそうに微笑んで見せた。
「いいえ。……ですが、乳母やマキナ……仲の良かった第四王女はきっと、悲しむでしょう」
それが少しだけ、悲しいのです。
その言葉が、アーベントの胸の底に、ずんと重いものを残した。
第一王宮では、葬儀の準備が着実に進みつつあった。
アインレーラは丁寧に遺体の収められた棺を前に、頭を垂れていた。
王の前では頭を垂れなければいけない。その作法があってよかったと、アインレーラは思う。でなければ、この緊張が王に一瞬で悟られてしまうだろう。
棺の中に入っている遺体は、アリアドネのものではない。狼にやられて死んだ、別の娘のものだ。髪の色で悟られぬよう、髪はまとめてヴェールで隠し、目はしっかりと閉ざしてある。
シニセスはゆっくりと棺の前に歩み寄り、その中の少女を見つめた。シニセスは、指折り数えるほどしかアリアドネに会っていなかったという。ならば、顔は覚えていないだろう。そう確信しているからこそ、この手に出たのだが……。
「……短い間で、ここまで痩せたか。……よほど、この国は貧しいのだろう」
それだけ言って、シニセスは棺から離れる。玉座に座り直し、はっきりと告げた。
「アリアドネは、この森に埋葬する。手配をしろ」
ほっとしながら、アインレーラは一礼する。棺の蓋をしっかりと閉めると、騎士団のものに棺を運ぶよう命じた。
その時。だん、と大きな音が響いた。
音のした方を見ると、扉をこじ開けて、幼い少女が入ってきていた。王家の装束を身につける彼女は、第四王女のマキナ。アリアドネと仲が良かったと聞いている。
「アリアドネが、アリアドネが死んだって本当なの!?」
彼女はアインレーラにすがりつくようにして言う。アインレーラは跪き、マキナに頭を垂れた。
「申し訳ございません。……なんと申し開きしてよいかもわかりません。騎士団でありながら、アリアドネ様をお守りできなかった。このアインレーラ、一生を掛けて、この罪を贖うつもりでございます」
マキナはアインレーラを見つめてから、棺を見た。白く、美しい装飾のなされた棺に駆け寄りその蓋をこじ開けようとする。慌てて止めたのは、アインレーラだった。
「いけません、マキナ様! 死を見つめては、お目が汚れます!」
肩を掴み、棺から引き剥がす。じたばたと暴れながら、マキナは「離してよ!」と叫んだ。
「この目なんか、いくら汚れたっていいわ! 最期の挨拶すらしてないのよ! このまま土に埋められるなんて、冗談じゃないわ!」
泣きそうに震える声で、マキナは叫ぶ。それを制したのは、意外にも、シニセスだった。
「やめよ、マキナ。……そう騒がれては、アリアドネも静かに眠れまい」
シニセスの言葉に、ぴたりとマキナは止まる。棺を見つめて、その場に崩れ落ちた。
「アリアドネ……! どうして、どうして……!」
ぼろぼろと、彼女が自慢する青色の口紅がとれるのも構わずに、マキナは泣き出す。アインレーラは深々と頭を下げると、騎士たちに棺を運び出すよう促した。
――――悲しい、いやだ! 私は、人形じゃない!
あの日……初めてアリアドネと顔を合わせた食事会。彼女は青ざめた顔で会場を飛び出し、城を飛び出し、馬にすがって泣いていた。その悲痛な声が、叫びが、耳に蘇る。
きっと、これでよかったのだ。この場所は、あの純粋な少女が生きるには、残酷すぎる。野を駆け、民衆に混ざり、森を歩き、やがて男性と恋に落ちて結婚し、子を作る。その生活の方が、よほど彼女にとって幸せだ。
それにしても――――と、アインレーラは思う。
ここまですんなりとことが運ぶとは思いもしなかった。賢く、そして目敏いシニセス王が、こちらの思惑に気付くことがなかったのは幸いだった。
あとは葬儀を何事もなく終え、この棺を埋めてしまえば終わりだ。アリアドネを守れなかったことで処罰はされるだろうが、自分の保身により1人の少女の幸せを奪うくらいなら、それでよかった。
重荷が外れたような心地で、アインレーラは微笑んだ。
翌日、城下町と貴族街は黒の旗と帯で飾られた。
アリアドネ姫の葬儀は街を巻き込み、盛大に行われた。第二王宮、城下町の広場からよく見えるテラスで、シニセスは黒い花を生み出し、街に撒く。それは王の悲しみとして、街に降り注いだ。
「この花が枯れるとき、我が王家も、そなたら民衆も、アリアドネの死を乗り越えるだろう。この悲しみと怒りを、無碍にしてはいけない」
よく響く声で、シニセスは言う。その後、アリアドネ――――正確には、その代わりの少女――――の遺体が入った棺を馬車に乗せ、城下町を歩かせた。人々は頭を垂れ、あるものは泣き、あるものは悲しみの表情で馬車を見つめ、死を悼んだ。
そして無事に葬儀を終え、遺体は森に埋められた。木と石で造られた墓標には、アリアドネの名と、アリアドネを称える文が刻まれた。
青空の澄み渡る、晴天。今日、1人の少女が死んだ。そして、1人の少女が生まれ、彼女は人として生きていく。
アインレーラは葬儀を見つめながら、どこか晴れ晴れとした気分でそう思った。
葬儀を終えたシニセスは玉座に戻らず、城を囲む森の中にいた。
といっても、アリアドネの墓にいたのではない。そこから遠く、森の外れに位置するそこでシニセスを待っていたのは、どこからどう見ても荒くれ者の集団だった。
あるものは古びた剣を、あるものは斧を、草を刈る鎌を持つ彼らは、山賊たちだ。彼らの前に立つと、シニセスは告げる。
「アリアドネは生きているだろう」
シニセスには、アインレーラがアリアドネを隠しているように見えてしかたがなかった。しかし、年のわりには頭の切れる青年だ。根も葉もない嘘は吐かないだろう。根も葉もない嘘というのは、悟られやすい。本当のことを混ぜた嘘というものは、悟られにくいものだ。
わざわざチェルルの町の名と、「ヒューレのみの賊」を出したのが気にかかる。……ならばそこが、真実。
「チェルルの町を襲い、沈めろ。その町にるアリアドネを見つけ、生きてここに連れて帰れ」
町で得た金品や食料、女子どもは好きにしていい。
そう告げると、山賊たちは下卑た笑みを浮かべて頷いた。
王家のものが、下々に混ざり生きるなど考えられない。ましてやアリアドネは、国の力の及ばない、独立した力――――騎士団と王家を結ぶ、基調な糸でもある。
騎士団は国とは独立した力だ。まだネフリティス国が貧しかったころ、いつ攻め落とされても国を守れるよう、国とは独立した力が必要だった。
しかしそれも今は必要がない。騎士団を王家の手の内に収められれば、戦力の増大が図れるだろう。そうすれば、隣国を攻め落とし、まだ裕福とはいえないネフリティス国を更に豊かにできる。
マキナはお得意の我儘さを発揮し、どこの嫁にも行かずにいる。だが従順なアリアドネなら、連れ戻せば素直に聞くだろう。彼女は、手放せない重要な糸なのだ。
行け、と。シニセスは命ずる。山賊たちは形だけの礼をし、森から出ていった。
もう少しで、すべてが手に入る。100年前、渇望した力が。
くく、と笑うシニセスを、ベルレの大空樹は静かに見下ろしていた。