がらがらと、車輪が回る音がする。歩くのとそんなに変わらない速さで、町への荷物を運ぶ荷馬車が道を進んでいた。
その荷台に、1人の男が座っていた。男は呑気に草笛を吹きながら、流れる景色を見ている。空は青空が見えているものの、雲が多い。空気に漂う水の匂いを感じて、空を見上げた。
「こりゃ、降るなあ」
呟いた男の髪は、布で覆われていた。ボロ布を適当に巻いているだけだが、髪はすっかり見えない。馬に乗っていた荷馬車の主は空を見上げて「ああ」と呟いた。
「たしかに、こりゃ降るなあ。どっかの町で一休みしねえと」
馬の尻を鞭で叩き、速度を上げさせる。馬は不機嫌そうにひと鳴きすると、先程よりも早い速度で歩き出した。
「このままだと、どこの町に着くんだい?」
のんびりした口調で、男は問う。荷馬車の主はちらりとも後ろを振り向かずに、「チェルルさ」と一言だけ返した。
「ふうん。どんな町?」
「なんもねえ町だよ。近くの湖と川でとれる魚はうまいと聞くがね」
仕事でしか行かねえ町さ。
男はそれを聞いて、「へえ」と笑った。
「んじゃ、俺はチェルルで降りるわ」
そう言うと、荷馬車の主は「へいへい」とおざなりに返事をした。それを聞いて、男はまた草笛を吹き始める。耳障りな音だ、と、荷馬車の主は眉をしかめた。
降りそうだな。
空を見上げて、アーベントはぽつりと思った。
背後では、アリアドネがせっせと薬草を並べていた。風邪に効く薬を、いくつかの薬草から作る練習中だ。薬草の種類も覚えてきたから、そろそろ調合を教えてもいいか。そう思ったのは、昨日の夜だった。
アリアドネの作業も確認しつつ、窓の外を眺めていたアーベントは、椅子から腰を持ち上げた。アリアドネがそれを見上げる。
「どうしたのですか?」
丸い瞳で見上げてくるアリアドネを見下ろして、「ああ」と返事した。
「雨が降りそうだからな。外で干してる草を中に入れてくる」
アーベントの言葉に、アリアドネも外を見る。雲はたしかに多いのだが、青い空はまだ見えていた。雨が降りそうには思えない。
「……降るのですか?」
「ああ。雲の流れが早いだろ?」
言って、アーベントは外に出る。干してある薬草を引き上げると、倉庫の中にしまった。
見れば、他の人々もそうだった。外に出ているものを中に入れたり、洗濯物をしまったりしている。
「……町の人々は、そんなこともわかるのですね」
関心したように、アリアドネは言う。天気を見ることができるのは、雲読みだけだと思っていた。同じように、まさか人々も雲を読めるなんて。
アーベントはアリアドネを見て、くすりと笑った。
「町で生きるコツってやつだよ。このへんじゃ、雲読みのインテリの話も届きにくい」
手が止まってる。言われて、わたわたとアリアドネは作業を再開した。いくつかの葉と草を乾かしたものを、アーベントに言われたとおりの量ずつ取って、すり鉢で潰したり、軽く揉んだりを繰り返していく。度々入るアーベントの助言に頷いて、アリアドネは着実に薬を作っていた。
第五王女。そう聞いたときは驚いたし、出会った頃は本当に何も知らない少女だった。だがその分、覚えが恐ろしく早い。あっという間に、仕事もすべて覚えてしまうだろう。
なんだか少し誇らしい気分だ。自分に娘がいたら、こんな気分だったのかもしれない。そんな事を思いながら外を見ていると、慌てて走っていく子供たちが見えた。
「あれは……」
アーベントが呟く声に、アリアドネも外を見る。そこには、仲良く走っていくネモとレノの姿があった。「あ」と、アリアドネも声を上げる。
「なんだあいつら、もう仲直りしやがったのか」
笑って、アーベントは言う。ついこの間まで喧嘩をしていたとは思えないほど、2人は笑い合って走っていく。雨が降るぞ。声が聞こえた。
「子供ってのは、喧嘩も多いが仲直りが早いな」
小さく呟く。その横顔がさみしげに見えて、アリアドネは1人の男の顔を思い出していた。
ローシャ。ヒューレの民の男。「空樹の枝」と呼ばれる組織の一員で、アーベントの知り合い。
彼とアーベントは、喧嘩をしてしまったのだろう。この間の夜よりも、もっと前に。そして、仲直りできずにいる。
悲しい気分になったアリアドネに「もう少しでできるな」とアーベントは声をかけた。見上げるアリアドネに、アーベントは笑う。
「そいつができたら、休もう。茶をいれる」
先程のさみしげな顔はどこかに行き、いつもの優しげなアーベントに戻っていた。少しだけほっとして、アリアドネは作業に戻る。
少しして、できた薬を袋に入れて、完成。中身を見たアーベントが「うん」と頷く。
「上出来」
笑って言うアーベントに、アリアドネも嬉しそうに笑う。「休憩しよう」と茶器を手に取ったところで、ノックもなしに戸が開いた。
自然と、視線がそちらに向かう。そこにいたのは――――。
「お前……」
アーベントが言う。
そこにいたのは、ローシャだった。布の巻き方が違うが、あの夜に見た顔と同じだ。
立ち上がり、アリアドネが一歩下がる。だが、次の瞬間。
「アーベント、やっぱりお前か! いやあ、久しぶりだなあ!」
そう、快活に笑いだした。
きょとんと、アリアドネの目が丸くなる。アーベントは笑うと、
「ローレル! お前、こんなところにどうした?」
ローシャでは、ない?
アリアドネは困惑して、2人を見る。ローレル、と呼ばれた男はアリアドネを見ると、一瞬驚いた顔をして、アーベントを見た。
「おい、お前。この子まさか……」
「娘じゃねえぞ。ちょっとした預かりもんだ」
ようやく言うことのなくなったと思っていた言葉を、アーベントは言う。「ふうん」とローレルは言うと、
「ローレルだ。こいつの古い知り合いでなあ。よろしくな」
未だ戸惑っているアリアドネに「あー」とアーベントは言う。
「こいつはな、ローシャの『双木』……双子ってやつだ」
ローシャの名前に、ローレルが眉を上げる。
「なんだ、あいつ来たのか」
「ちょっと前にな」
ローレルは苦笑を浮かべ、アリアドネに一歩近付いた。
「俺の弟がすまねえな、なんかきついこと言ったんだろ? 悪気があるわけじゃねえと思うんだ、許してやってくれ」
なんとか納得したのか、アリアドネは「は、はい」と頷いた。
「ご無礼をお許しください、ローレルさん。……あ、お茶をいれてきますね!」
言って、アーベントの手から茶器を取る。茶をいれはじめたアリアドネの後ろ姿を見て、ローレルはアーベントの耳に口を寄せた。
「お前、どこのお嬢様拾った」
小声、それも低い声でローレルが言う。「なんのことだ」としらばっくれるアーベントの脇腹に、ローレルは肘を軽く入れた。
「ばぁか、庶民の娘があんな上品な言葉使うかよ。しかもてめえが預かってるなら尚更だろうが」
目を細めて言うローレルに、アーベントはため息をついた。
「ワケありでな。ちょいと面倒見ることになった。……お前の嫌いな面倒事だ、首突っ込まねえ方いいぞ」
うへ、と。嫌そうな顔を隠さずに、ローレルは下がる。こいつのこういうところが嫌いになれないな、と思いながら、アーベントは椅子に座った。
「にしても、チェルルに来るとはな」
はは、と。アーベントの言葉にローレルは笑う。
「春の上月には、ネフリティスにいたんだけどな。荷馬車でもうちょい先まで行こうと思ったんだが、この天気だろ?」
上を指さして、ローレルは言う。なるほど、雨宿りらしい。
「ま、お前がいるならこの辺でもいいかな。春になったし、しばらくこの辺にいるとするよ」
言って、ローレルは腰に吊った水筒の中を飲み始めた。ふわ、と。酒の匂いが漂う。水筒を差し出されたアーベントは、首を横に振って断った。
「お前、あいっかわらず酒を飲まねえよなあ。人生損してるぜ?」
「俺にはこいつがあれば十分なんだよ」
アーベントは煙草を取り出し、火をつける。ふわりと、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが漂い、酒の匂いをかき消した。
「ところで、ネフリティスの他の町も見て回ったんだろ?」
アーベントが唐突に切り出す。茶器から茶をコップに注いでいたアリアドネは、アーベントを見た。
「ああ、見てきたぜ。どうした」
アーベントは煙を吐き出してから、言った。
「薬草売りのいねえ町はあったか? 森に近えと嬉しいんだが」
アリアドネが手を止める。ローレルは「ああ」と声を上げて、
「なんだ、そろそろ町を出るのか?」
「そんなところだ」
ごとん、と。
茶器が置かれる音が大きく響いた。
アーベントがアリアドネを見る。驚いた表情のアリアドネは、小さく言った。
「……町を、出るのですか?」
少しだけ震えているような気がした。アーベントは布越しに頭を掻くと、「ああ」と頷いた。
「ちょいと悪目立ちしすぎてると思ってな。……俺もここにはもう数年いる。そろそろ限界だな」
何故。震える声で問いかけた。アーベントはアリアドネを見て、言う。
「ヒューレは人間じゃない。それだけで、人間には異質に見える。……人間はな、異質を排除することで、平穏な暮らしをしているんだ」
「そんなことする人たちじゃありません!」
声を上げて、アリアドネは言った。今度は、アーベントが驚いた顔をする。
「あの人たちはきっと、ヒューレだとわかっても、きっとっ」
「いざとなった人間のことなんざ、誰にもわかりゃしねえよ」
口を挟んだのは、ローレルだった。苦笑を浮かべながら、ローレルはアリアドネに視線を合わせる。
「残念だが、ヒューレっつうのはな。森を出たときから、こういう生き方をしなきゃいけなくなっちまった。……寂しいと思うが、新しい出会いもある」
森を、出たときから。
呟く。
ヒューレは王家に森を追われ、外の世界で暮らすことになった。自分たちとは違う人間の中で、こうやって、流れながら。
先程の口ぶりからして、ローレルは1つの場所に留まることはなく、短い時間で町を出ていってしまうのだろう。アーベントもきっと、そうやって生きてきた。
王家がしたことは、故郷を奪うことにとどまらない。ヒューレの民から、生き方さえも奪った。
す、と血の気が引いたアリアドネに、「大丈夫か」とアーベントは声をかける。青ざめた唇で「はい」と言うと、一礼して寝室に引っ込んでいった。
「……あの子、大丈夫か」
ローレルが言う。アーベントは「たぶん」と頷くと、茶を自分でいれはじめた。
「……あの口ぶりじゃ、何も知らねえな。……ほんと、どこのお嬢様拾ったんだか」
言って、ローレルは酒を飲む。
寝室からは、何も聞こえなかった。