窓を打つ雨の音に、アーベントは顔を上げた。
ついに降ってきたらしい。夕方から夜へと変わりつつある暗い空は、分厚い雲でさらに暗くなっていた。黒々とした雲から、絶えず雨粒が吐き出される。
ローレルは少し前に出ていった。仮の宿とする場所を探しに行ったのだが、雨は大丈夫だろうか。
ふと、寝室の戸を見る。アリアドネが寝室に飛び込んで行ってからしばらく経つが、物音1つしない。泣いている声も聞こえないが、具合でも悪くしていたら事だ。
暖かい茶でも持っていってやろうと、アーベントは炉に近付く。そこで、戸を叩かれる音が響いた。
ローレルが、宿が見つからずにうちに来たのかも知れない。アーベントは持ち上げかけた茶器を一旦置き、戸を開けた。
「よお、どうし……」
そこにいた男は、ローレルと同じ顔をしていた。だが、ローレルではないと、眉間に深く刻まれた皺と目つきが語っている。
「……ローシャ」
名を呼ぶ。ローレルの双子の弟の名。ローシャは何も言わず、アーベントを押しのけて家の中に入った。
雨の中を歩いて来たのだろう。頭に巻いた布の端から、水滴が絶えず滴り落ちていた。ローシャ。もう一度、名前を呼んだ。
「……アリアドネはどこだ」
低い声で、ローシャは言った。
「……何故、そんなことを聞く」
明らかに、様子がおかしい。こないだよりも、空気が刃のように鋭い。
雨の空気が、窓や壁から、部屋の中へと滲み出していた。ひんやりとまとわりつく雨の気配よりも早く、アーベントの頭が冷えていく。
次の瞬間、アーベントは壁に押さえ込まれていた。首筋に冷たい感触が触れる。見れば、刃が当てられていた。
「言え。あの娘は今どこにいる」
ぐ、と押し込まれた短剣の刃は、所々刃が欠けてしまっている。だが、それでも刃としての誇りは失ってはいないらしい。アーベントの首の薄皮を切り、赤い線を刻んでいた。
「……何が目的だ。あいつはただの娘だぞ」
刃にもたじろぐことなく、アーベントは言い放つ。だがすぐに、ローシャは「とぼけるな」と低い声で言った。
「……少し前、騎士団を襲った。第五王女を護送中と聞いてな」
濡れたローシャからしたる滴が、アーベントの首筋を垂れていく。ぱちんと、炎の弾ける音がした。
「……あのとき見た第五王女は、たしかに、ここで見たアリアドネの顔だった」
表情に、憎悪が浮かんでいく。それに、アーベントは気付いていた。
「答えろ、アーベント。アリアドネはどこにいる。……何故、王家の人間を匿っている!」
ローシャは憎悪がむき出しになった瞳でアーベントを見た。
昔から気にくわないやつではあった。静かに佇むことをよしとし、動くことを嫌う。若い頃から、まるで老人のようだった。
動かないこと、激しい感情を持たないこと。それは臆病だからではなく、それをよしとしているからこその態度であると、ローシャは知っていた。……故に、アーベントは気にくわなかった。
アーベントの瞳は、やはり、静かだ。……そう思われた。
その奥にちらりと、悲しみのようなものが見えた気がして、ローシャは一瞬たじろいだ。
「……そりゃ、王家は憎いさ」
ぽつり。
まるで雨粒のひとつのように、アーベントは口にする。
「だが、あいつに罪はねえ。……森を奪ったのも、俺たちを追い出したのも、あいつじゃねえ。あいつの親がやったことを、何も知らねえで生まれてきた子供に背負わせるのか」
何を言っているのか。
王家は等しく罪を背負っている。何も知らず、無知なまま、嘘を嘘とも見抜けない間抜けな王家の子。それがすでに、罪だというのに。
だが、アーベントは心の底からそう言いはなった。
「……お前は、あの王に、あんなことをされていてもそう言うのか」
100年前。あの森で起きた出来事が、まるで昨日の事のように思い出される。剣と槍を携え、鎧を着た兵士たちが大勢やって来て、ヒューレの人々を殺していった。長老であるプロトリウムも、同じように殺された。
そして、アーベントの妻であるエアルも、同じように殺された。王の振るう剣に貫かれ、アーベントを守り死んでいった。
「……妻を目の前で殺した相手の、娘だぞ。何故そんなことが言える!」
詰問というよりも、すがるような声だった。
アーベントは何も答えず、ローシャの顔を見つめていた。いつもは何が起きても眉を動かさないアーベントの顔が、歪んでいる。
「……アーベント、お前だって本当はアリアドネが憎いんだろう? それは間違ってはいない感情だ。心を持つものならば、誰しも憎いと感じるだろう。それは正しい」
憎いと叫べ。
ローシャはアーベントの首筋から短剣を離し、肩を掴んだ。
妻を殺した相手の娘を。
あの面影がちらつく彼女を。
「もう、やめてくれ……!」
叫んだのは、憎悪ではなかった。
それは懇願。手で顔を覆いながら、アーベントは首を横に振った。
「俺は、ただ静かに暮らしたいだけなんだ……!」
憎しみも、悲しみも。
激しい感情を持たずに、ただ穏やかに、緩やかに。
まるで木々のように。
「もう、憎む余力なんざ、ねえんだよ……!」
ローシャはアーベントから離れると、短剣をしまった。
吐き出すように言ったアーベントを見下ろして、言う。
「……だが、お前だってわかっているだろう。……あの娘といる限り、お前に平穏はない」
ぐ、と。アーベントが奥歯を噛んだ。
「……お前は常に、憎しみの影と暮らすことになるのだから」
ローシャは戸に手をかけて、雨の降る外へと出た。ざああ、と。雨音が、開いた戸から押し寄せてくる。
「彼女は殺しはしない。王を誘き寄せる囮になってもらう。……お前にとって、どちらがいいか、考えろ」
言い残して、ローシャは戸を閉める。雨音が追い出され、遠退いた。
瞬間、寝室の戸が開いた。アーベントはそちらを見る。……アリアドネが、立っていた。
「……お前、聞いて」
言い終わる前に、アリアドネは頭を下げた。
「私、行きます」
どこに。
それは聞かなくても明白だった。
「……お世話になりました」
慌てて止めようとした言葉が、何かに塞き止められる。
――――お前にとって、どちらがいいか、考えろ。
ローシャの言葉が、耳に甦る。アリアドネは戸を開け、雨の降る外へと飛び出していった。
アーベントは、それをただ見送るだけだった。
「お待ちください!」
歩いていたローシャ、背後からの声に立ち止まった。
家から漏れるわずかな光。それに照らされているのは、アリアドネ。あの日見た第五王女だった。
「共に、行きます」
泣きそうな顔で、幼い声で、アリアドネはそうはっきりと言った。
――――何も知らねえで生まれてきた子供に背負わせるのか。
アーベントの言葉が、まるで細かな針のように胸を突き刺す。
わかっている、これは八つ当たりのようなものなのかもしれない。だが、それでも、やらなくてはいけない。他の仲間のために、死んでいったヒューレの民たちのために。
「……こっちだ」
ぶっきらぼうに言って、ローシャは歩き出す。その背顔を、アリアドネは振り向かずに追いかけた。
しばらくして、戸を叩く音も無しに、戸が開いた。
ゆっくりと顔を上げてみれば、そこに立っていたのはモナだった。肩を濡らした彼女は、部屋の中を見渡す。
「……アリアドネちゃんが血相変えて飛び出して行ったみたいだけど」
気怠そうに、思い出したくもないと言うように、アーベントは首を振る。
「親戚の子どもだっつったろ。帰ったんだよ」
「……帰った、ねぇ……」と、モナは呟く。そして、ため息と共に言った。
「あんな顔で親元に帰る子どもがいるのかい」
見たアリアドネの顔は、切羽詰まるような顔だった。今から親元に帰るという、喜びや明るさはどこにもない。あるのは、今にも泣き出しそうな顔。
「喧嘩でもしたのかい」
モナの言葉に、アーベントは「そういうんじゃねえ」とぶっきらぼうに返した。
「じゃあ、なんだっていうんだ」
「人の問題にそう首を突っ込むもんじゃねえよ」
呆れたようなモナに、アーベントは冷たく言い放つ。さああ、と。雨音が聞こえた。
「……そうだね、そうかもしれないね」
肩をすくめて、モナは言う。しかし、「だけどね」とアーベントを見た。
「人の問題に子どもを付き合わせるのもどうかと思うがね」
凛とした声。それはまるで、やいばのように胸を切り裂いた。そんな気がした。
「ネモをごらんよ。親の苦労も知らないですくすく育ちやがった。だがそれが一番さね。次の時代をつくるのはあの子たちだ。あたしらの一時の感情に巻き込んじゃいけないよ」
気づけば、モナはさばさばとした、男のような口調になっていた。これがモナの素であることを知っているのは、数少ない。
彼女だって、こうして子供に取り繕うのだ。心を見せないよう。親はいつでも、強いものでなければいけないと。
降りしきる雨の音に紛れて、ぽつりと、呟いた。
「……弱いな」
それが人間さね。
モナが言った。