雨上がりの空気はよく澄んでいて、少しだけ冷たい。まるで世界が雨で洗い流されたように、美しく輝いていた。
チェルルから伸びる道を南に下ると、小さな村が存在している。馬宿のあるその村を、アインレーラは鎧を脱いだ姿で歩いていた。
騎士団の鎧は目立ちすぎる。庶民と変わらぬ服を着て歩いた方が、人々も情報を話しやすい。アインレーラは市場で買い物をするふりをしながら、情報を集めていたのだ。
賊である、「空樹の枝」。彼らの隠れ家と、行き先。彼らは、アリアドネは死んでいないと知っている。しかも、顔も見られているはずだ。となれば、彼らはアリアドネを再び狙いチェルルの町を目指すはずだった。
そのため、アインレーラ率いる騎士団はその周辺の村で聞き込みを行っていた。
果物を売る店の老婆に話を聞きながら、熟れた果実を買う。銅貨を1枚渡して、アインレーラはふと顔を上げた。
民草の中に、1人。傘をかぶった男がいた。傘についている薄い布のせいで、顔はわからない。彼は少女の手を引き、歩いていた。
同じように、大人ものの傘を被せられた彼女。ふわりと吹いた風が、傘の布を一瞬だけ舞い上げた。
花色の瞳と、目が合った。
ころんと、アインレーラは果実を落とす。まるで逃げるように去っていった彼らを、アインレーラはただ見つめていた。
雨が上がった後の森は、まだ水気を含んでいた。まるで空気自体が重さを持ったようだ。まとわりついてくる湿気は、体の動きを鈍らせる。
濡れた草や苔で滑らないように、アーベントはゆっくりと、だが慣れた足取りで道を歩いていた。くしゅり、と。濡れた草が踏まれる度に音を鳴らす。
濡れた森の香りはいつもより濃く、青々しい。布からはみ出た髪を布の中に押し戻して、アーベントはその場にしゃがみこんだ。
濡れてしまってはいるが、傷に効く薬草が見つかった。晴れた日に乾かせば、これも使えるようになるだろう。濡れた草を指で掴んで、摘み取る。ぷつん。軽い音がした。
くしゅり。濡れた草が踏まれる音が、どこかから聞こえていた。それに気づかないふりをしながら、アーベントはよく育った草を選んで摘み取っていく。くしゅり、くしゅり。足音が、近づいてくる。
背後で、足音が止まった。摘み取った草をかごに入れて、アーベントは長く、息を吐いた。
「早かったな。……もう少し、時間がかかるかと思った」
静かな森の中に、アーベントの声が響く。アーベントの背後で、彼は剣の柄に手を置いた。
「舐められたものだな」
低い声で、彼……アインレーラは言った。振り向こうとしないアーベントに、アインレーラは剣を抜く。それを、アーベントの頭に突きつけた。
「アリアドネをどこにやった」
水気を含んだ風が、2人の間を吹き抜ける。布を、服を、木々の葉を揺らして、風は空高く駆け抜けていった。
「……ヒューレの仲間に預けたよ」
籠を抱え直して、アーベントは言った。「仲間?」とアインレーラが問う。「ああ」と、アーベントはうなずいた。
ちちち、と鳥が鳴いた。アインレーラは剣を収めると、ただ、言った。
「見損ないましたよ」
穏やかな声ではない。はっきりと、軽蔑を含んだ声だった。くるりと踵を返して、アーベントに背を向ける。
「……彼らが王家と接触する前に、襲撃する予定です」
彼ら、とは。すなわち「空樹の枝」のことだろう。ちらりと、アーベントがアインレーラを見る。アインレーラはアーベントを見ずに、言った。
「このまま貴方が来ないなら、連れて帰ります」
それだけ言って、アインレーラは足早に去っていった。足音が聞こえなくなるほど、木々に隠れて姿が見えなくなるほど。彼の後ろ姿を見送って、アーベントはぽつりとつぶやいた。
「……どうしろって言うんだ」
風が、木々を揺らしていた。
森を出て村に帰る頃には、日が傾いていた。うっすらと光に金色が混ざっている。町に出ている店は店じまいを進めていて、あと1時間も経たないうちに全ての店が閉まってしまうだろう。
いつものように、村の広場ではネモが遊んでいた。誰を真似したのか、頭に乗っけた布を風で揺らしながら。
アーベントはネモに近づくと、「ネモ」と呼びかけた。
「あ、アーベント!」
ネモはアーベントに気がつくと、アーベントに駆け寄った。そしてすぐに、きょとんと目を丸くする。
「あれ、アリアドネは?」
最近は、森に入るときは必ずアリアドネが一緒だった。森から出てきたアーベントが1人なのは、ここ最近では珍しい姿だろう。
アーベントは籠を持ち直して、ネモに視線を合わせるようにしゃがんだ。
「ネモ」
名を呼ぶ。まっすぐな瞳がアーベントを見つめ返して、落ち着かない気分になる。……いや、このくらいまっすぐでないと、自分はまたすぐに逃げる。
「お前、アリアドネが好きか?」
我ながら率直すぎる。だがまだ純粋な子供は、はっきりとうなずいて見せた。
「うん! 俺、アリアドネのこと好きだよ! 物知りだし、かわいいし、優しいし!」
笑顔でそう言うネモに、アーベントの中で何かが決まった。遅すぎる決心だった。
「そうか、わかった」
言って、アーベントは立ち上がった。見上げてくるネモに、アーベントは振り返らずに言う。
「モナさんに言っといてくれ、しばらく帰らねえ」
「え、ちょ。薬草は?」
「テーブルの上に置いとくから」
そのまま、アーベントは走り出す。一旦自分の家に帰ってから、籠を適当に下ろした。ここ数日分で必要になるだろう薬草をテーブルの上に出して、適当に置いておく。そして硬貨の詰まった袋から何枚か銀貨を取り出すと、そのまま家を飛び出した。
向かったのは、村唯一の馬屋だ。そろそろ店を閉めようとしていた老人に、アーベントは言う。
「じいさん、馬貸してくれ! 一番速いやつだ!」
老人は驚いたようにアーベントを見ると、すぐに「珍しいね」と笑った。
「いいから、馬はどいつだ」
「そいつだよ」
老人は笑って一頭の馬を指さした。懐から代金を取り出そうとするアーベントに、老人は「あとでいい」と笑った。
「急いでんだろう? おまけしてやるから、さっさと行きな」
アーベントは目を丸くして老人を見る。だがすぐに「ありがとう」と言うと、指をさされた馬の手綱を引いて馬屋から出した。
馬に乗るのは久しぶりだ。途中で振り落とされなければいいが。
アーベントは馬にまたがると、記憶を手繰り寄せながら、馬を走らせた。
太陽は徐々に西へと傾いていく。金色の光は徐々に濃くなり、世界に黄昏の色を落としていた。
「日が完全に落ちれば、やつらは動き出すでしょう。いつでも闇に乗じて動くやつらです」
ニアは静かに、アインレーラに告げる。
鎧を着たアインレーラは、ニアにうなずいた。
「日が落ちたら、彼らに襲撃をしかける。……彼が来なかったら、そのまま城に連れ帰りましょう」
傍らの剣をしっかりと持ち、アインレーラは言った。