日は沈み、すでに辺りは暗闇となっていた。
ローシャは闇の中をゆっくりと進んでいた。傍らには、小さな馬車。その中には、第五王女……アリアドネがいる。
彼女の移動は、なるべく少数で隠密に進めたかった。彼女を何事もなく王家に突き出し、交渉を進めなくてはならない。……脅しに近い交渉だが。
――――何も知らねえで生まれてきた子供に背負わせるのか。
アーベントの言葉が耳に蘇ってきた。それを首を振って追い払う。決めてしまったことなんだ、やると決めたこと。それを今更「できない」なんて言えない。
そしてこれは、国中に散った仲間たちの悲願でもある。森を取り戻す。そのためだったらなんでもやってやる。……それが俺たち、「空樹の枝」なのだから。
チェルルを出てしまうと、王都までの道に大きな森はない。しばらくは街道を行くことになる。しかし、日が沈みきった夜に歩いている人はおらず、辺りは静まりかえっている。
このまま順調に町を離れられればいいが……。
その思いは、蹄の音で掻き消された。
複数の蹄の音が聞こえてくる。馬を止めさせると、ローシャは後ろを見た。
そこに、彼らはいた。
鎧を着た複数の男たちが、馬に乗ってこちらへと駆けてくる。……騎士団だ。
「おい、ローシャ! どうする、逃げるか!?」
枝の1人がローシャに言う。ローシャは首を振った。
「騎士団の馬に速さで勝てるわけがない。……お前はあいつを守れ。俺たちがあいつらをひきつけている間に逃げろ」
言って、ローシャは剣を抜いた。騎士団たちは自分たちの目の前で止まると、一斉に剣を抜く。
「アリアドネ王女を返して貰いに来た」
先頭の馬に乗った男――たしか騎士団長代理、アインレーラだ――は、抜いた剣を真っ直ぐにこちらに向けて言った。
「……断ると言ったら」
ローシャが言う。アインレーラは鋭い目つきで、言った。
「力づくでも奪い取る」
いけ、とアインレーラは合図を出した。その瞬間、騎士団たちは馬から降りることなく襲いかかってくる。ローシャはひるむことなく前に出ると、なまくらの剣を振りかざした。
「いけ、さっさと!」
後ろの仲間たちに声をかける。馬車が動き出したのを見て、ローシャは騎士団に向かっていった。
暗くなった道を、一頭の馬が駆け抜けていた。
前日の雨でぬかるんだ道だからか、馬が走りづらそうにしているのがわかる。それでも速度を緩めることなく、アーベントは馬を走らせていた。
この道の先に彼がいると確信は持っていなかった。だが、ローシャたちは王家の人間にアリアドネを引き合わせるのが目的なはずだ。だとしたら、まっすぐ王都を目指すはずだった。
ならばそれを騎士団たちも狙うはず。
その考えにうなずくかのように、剣と剣のぶつかる鋭い音が聞こえてきた。手綱を強く握って、アーベントは馬の速度を上げる。短く鳴いて、馬は走った。
見えたのは、僅かな月明かりと、騎士団たちの松明で照らされた戦闘だった。幸い、まだ誰も死んではいない。だが、アリアドネの姿が見えなかった。
アーベントの馬に、一頭の馬が近づいてくる。騎士団の馬、たしかニアというアインレーラの部下だ。
「アーベント様、アリアドネ様はこの道の向こうです。馬車の中にいます」
お早く。
そう言うニアに、アーベントはうなずいた。礼の言葉も短く、アーベントはまた走り出す。戦闘の横をすり抜けるようにして走り、道を急いだ。
背後の音が遠ざかっていく。一瞬、アインレーラと目が合った。アインレーラは何も言わずに、剣の峰で男の腹を薙ぐ。アーベントはすぐ前に視線を戻し、馬に手綱をぶつけた。
馬車にはすぐに追いついた。馬車を引いているからか、速度はそこまで出ていない。アーベントは馬車の後ろに馬を近づけると、中に向かって叫んだ。
「アリアドネ!」
枝の人間は1人しかいないようだ。馬を走らせるのに夢中になっている。もう一度、アーベントはアリアドネの名を呼んだ。
「アリアドネ!!」
がたんと、馬車の中からアリアドネが顔を出す。枝の人間がかぶる傘をかぶっていた。アーベント、と。アリアドネの唇が動く。
「アリアドネ、飛べ!」
アーベントの言葉に、アリアドネは一瞬下を見た。速度が出ているからか、アリアドネの顔から血の気が引く。
アーベントはもう一度、言った。
「来い、アリアドネ!」
花色の瞳が、アーベントの空色の瞳を見た。アリアドネの瞳が、強く光る。
アリアドネは馬車の端に足をかけ、そして。
飛んだ。
その瞬間、アーベントは手に持っていたものを投げた。小さな種はまたたく間に成長し、草の形を成す。それがアリアドネの下で柔らかく芽吹き、アリアドネを受け止めた。
馬を止まらせ、アーベントはアリアドネに近づく。どうやら大きな怪我はしていないようだ。
一度馬を降り、アーベントはアリアドネを馬に乗せた。そして自分も馬に乗ると、今度はゆっくりと、馬を歩かせた。
アーベントが行ったのを見届けてから、アインレーラは目の前を見た。
すでに枝たちは満身創痍だ。大きな怪我をさせないように手は抜いたが、それでも立っているのがやっとだろう。アーベントを追っていったところで、取り替えすほどの力もないはずだ。
騎士団たちに目配せをして、アインレーラは剣を収める。そして。
「今後また王女に手を出したら、その首が胴から離れると思え」
低く言い、アインレーラは彼らを置き去りに走り出す。取り残された枝たちは、怪我をしたものたちを運ぶようにして、ゆっくりと馬車を追った。
このまま道を戻っても、彼らに遭遇するだけだろう。アーベントは大きな道を避け、遠回りをしていた。
前に乗せたアリアドネはうつむき、黙っている。アーベントは静かに、言った。
「……お前、どこに行きたい」
静かに、アリアドネはアーベントを見上げた。アーベントは前を見つめたまま、言う。「お前が行きたいなら、どこにでも連れてってやる」
だが。
馬を止めて、アーベントはアリアドネを見た。今にも泣きそうな瞳のアリアドネは、アーベントを見上げていた。
「……チェルルに戻りてえなら、このまま帰るぞ」
ぽろりと、涙が一筋頬を伝った。顔を歪めて泣き出したアリアドネの頬を、アーベントの手が拭う。
「かえり、たいです……チェルルに、帰りたいです……!」
泣きながら言うアリアドネに、アーベントはふっと笑った。
「ああ。……帰ろうか、俺たちの町に」
はい、と。アリアドネはうなずいた。
夜の闇がうっすらと白み、明るくなった頃。
母親に叩き起こされたネモは、水桶を抱えて外に出てきていた。くああ、と大きくあくびをして、井戸へと向かう。
蹄の音を聞いた。こんな時間に珍しいな、と思いながらネモは音のしたほうを見る。
たなびく布を見た。
ころん、と水桶をその場に投げ出して、ネモは走り出した。
「アリアドネー! アーベントー!」
名前を呼びながら近づいてくる影に、アーベントは苦笑した。アリアドネはかぶっていた傘を放り出して、ネモに手を振る。
「ネモ! 帰りました!」
「おかえり! おかえりアリアドネ!!」
ネモの騒々しさに、町の人々が外に出てくる。モナはその様子を見ながら、「しかたないね」とつぶやいた。
「ほら、さっさと入りなさい! あんたたちの分まで朝ごはんつくっておいたわよ! ネモ、あんたはさっさと水を汲んで来なさい!」
いつもどおりの喧騒が、アリアドネを包む。馬を降りて、アリアドネはネモに言った。
「お手伝いします。井戸に行きましょう」
ネモは嬉しそうに笑った。