「アリアドネはどこに行ってたの?」
チェルルの町で、アリアドネはモナの仕事を手伝っていた。「女の子なんだから、針仕事を覚えておいて損はない」というのはモナの言葉だ。アーベントもそう思っていたのか、快くアリアドネをモナの家に送り出した。
簡単な仕事を、モナに教えられる傍ら。隣に座ってそれを見ているネモが、たまにアリアドネと話しをしていた。
「少し用事があって、隣町まで」
「ふうん。ああ、じゃあアーベントは帰りに迎えに行ったんだ」
「はい、そうです」
針を布に刺して、縫っていく。最初のうちは指に針を刺したりしていたが、少しやるうちに慣れたようだ。まだ縫い目は荒いが、器用な子だから、すぐに綺麗な縫い目になるだろう。
「ほらネモ、邪魔しちゃいけないよ。あんたは自分の仕事をしなさいな」
この布、洗って来なさい。そう言われて、ネモは「はぁい」と嫌々ながら布の入った籠を持つ。それを見送ってから、アリアドネは針仕事に戻った。
「うん、上出来。薬草屋じゃなくて仕立て屋にならない? あたしがしっかり仕込むよ」
アリアドネは「えっと」と苦笑いする。からん、と。仕立て屋のドアが開いた。
「おや、アーベント。どうしたんだい?」
入ってきたのは、アーベントだった。アーベントはアリアドネを見てから、
「そいつが、指に針を突き刺してねえかと思ってな。傷薬を持ってきたが、いるか?」
「ああ、もらっておくよ。新しい縫い方を教えたら、またぶっすりやるかもしれないからね」
ぶっすり、という言い方に、アリアドネが「あはは」と笑った。「また」ということは、もうすでにやっているのだろう。見れば、元王家の綺麗な指が台無しだ。左手の人差し指に包帯が巻かれていた。
「針仕事はそうやって覚えるものだよ。こいつだって、何回指を包帯だらけにしたことか」
傍らで糸をつくっていた老婆が、かかと笑った。今日は調子が良いらしい、店にいるのがその証拠だ。
「よお、婆さん。咳はどうだい?」
「あんたの薬のおかげで、元気だよ。もう少ししたらいらなくなるかもしれないよ」
「はは、そいつは困ったな。お得意様がいなくなっちまう」
老婆と楽しそうに会話しているアーベントを見て、モナはお茶をいれることにした。アリアドネもそろそろ休憩させなければ。
「さて、アリアドネ。ちょっと針仕事を休んでこっちに来てちょうだい。一緒にお菓子を作らない? 覚えておいて損はないわ」
はい、と笑顔でうなずいてアリアドネはモナに駆け寄る。アーベントは適当に座ると、その後姿を見ていることにした。
「アーベントと一緒にいたら、男の料理ばっかり覚えちゃうから。女の料理も教えてあげる」
「おいおい、ちったあまともなもん作れるつもりだぞ俺は」
どうだか、と肩をすくめるモナを見て、アリアドネは笑った。
跪いたアインレーラの前には、玉座があった。
呼び出されたアインレーラは、馬を飛ばして城に来ていた。あの襲撃から、まだ1日程度しか経っていない。襲撃のことは報告しないつもりだった。
シニセスは玉座から立ち上がると、アインレーラの前にゆっくりと歩み寄った。こつん、こつんと。硬い床を靴底が叩く音が聞こえる。それが目の前に来た時、シニセスは穏やかに言った。
「立て、アインレーラ」
はい、とうなずいてから、アインレーラは立ち上がる。背は高い方だと思っていたが、シニセスはアインレーラより少し背が高かった。豪華な靴のせいかもしれない。
そして、間近で見るシニセスは、遠くで見るよりもずっと若く見えた。自分とそう歳が変わらないように見える。やや緑がかった金の髪が、揺れた。
「貴様、嘘を報告していただろう」
穏やかな、だが、鋭い声だった。
一瞬言いよどみ、だがアインレーラは憮然と、「なんのことでしょう」と笑ってみせる。シニセスはふ、と笑った。
「貴様は賢い。だが、愚かだ」
一歩、シニセスは下がる。そして。
「アリアドネは生きているな?」
笑みを崩さない表情で、シニセスは言った。
アインレーラの瞳が開かれる。シニセスはその表情を肯定と取り、笑みを消す。
「この我を欺くとは、思ったよりも豪胆だ。さすがは北の蛮族の血を引く者、といったところか。……だが」
すらり、と。細身の剣が抜かれる音がした。
「その罪、どうやって贖う?」
首を差し出すか。
シニセスはアインレーラの首筋に剣を置いた。使われてはいない、だが手入れも怠ってはいない刃は、アインレーラの首の薄皮を切り裂く。奥歯を噛み締めたアインレーラに、シニセスは言った。
「……だが、貴様にはまだやってもらうことが残っている。ああ、アリアドネの奪還ではない。それはもう、貴様たちには頼まぬ」
首筋から剣が離れる。シニセスはアインレーラを見つめ、そして。
細身の刃が、アインレーラの顔を切り裂いた。
「がっ……ぅ、ぐ」
声にならない。呻きが喉から溢れた。白い床に、紅い血が滴り落ちる。アインレーラの顔の左側、片目を切り裂いた刃から、雫がこぼれた。崩れ落ちたアインレーラを見下ろし、シニセスは言った。
「よってこの罪は、貴様の片目で収めてやろう」
剣を振るって、血を飛ばす。そのまま血で汚れた剣を配下に預け、シニセスは玉座に戻った。
「さて、アリアドネはやつらに任せることとしよう」
そして。
チェルルの町にいるヒューレとやらも、片付けてしまおう。
脳裏に、不快な男の顔が浮かび上がる。名も忘れた。忘れようと努力して、60年かかってようやく忘れることができたというのに、顔だけはまだはっきりと覚えている。
やつはどこかでのたれ死んだだろうというのに。
嗚呼、エアル。我が愛した最後の女。何故お前は、あの男など庇ったのだ。
その問いに答えるものは、もうどこにもいなかった。