目を覚ますと、見慣れた天井がそこにあった。
ぼんやりと見つめているうちに、思い出した。……昨夜の話だ。
昨夜、王の息がかかっていると思われる山賊の襲撃に遭った。それを撃退したのは、騎士団と――――アーベントだった。
山賊は昨夜のうちに、半数以上が捕らえられた。自分、アリアドネはほっとしたからか、家に戻ってきたアーベントに促されるままに寝台に入り、そのまま寝てしまったのだ。
ゆっくりと半身を起こし、朝の光を浴びる。チチ、と鳥の鳴く声がして。
どさり、と何かが置かれる音がした。
すでにアーベントが起きているようだ。アリアドネはすぐさま寝台から飛び起きると、寝室のドアを開けた。
そこに、アーベントがいた。
物が積み上げられ、散らかっていないのに散らかっているように見えたそこは、半ば片付いている。アーベントは煙草を咥えたところで、「ん」とアリアドネを振り向いた。
「おはよう、アリアドネ。……よく眠れたか?」
アーベントは、少し寝足りないらしい。やややつれた顔がそれを示していた。「はい」と、アリアドネは頷く。
「すみません、こんなに……もう、お日様が空樹の上ですね」
覚えたての言葉を使ってみる。アーベントはからからと笑うと、アリアドネの頭を優しく叩いた。
「すっかりヒューレらしくなったな。……そのおかげで、ちょいと面倒なことに巻き込んじまったが」
アーベントが窓の外を見る。アリアドネも、その視線をたどった。
いつもは人が行き交う外の道。そこに、人は1人もいなかった。
山賊に襲われ、やや荒れた道はそっくりそのままだ。片付ける者たちがいてもおかしくないはずだが、それがない。しん、と静まり返った道は、奇妙だ。
「……怯えさせちまったか、無理もねえ。……町の人達には、悪いことをした」
低い声で、アーベントは言った。
アリアドネも、窓の内側からそれを見ていた。
力は同胞の前か、森の中でしか使ってはいけない。それを破り、アーベントは町の人々の前でその力を使った。空樹の加護を。
間違ってはいない、アリアドネはそう思う。アーベントがそうしなければ、騎士団の到着を待つことなく山賊たちはチェルルの街を襲っただろう。……そして、人々を殺しただろう。
町の人々が1人も死ぬことなく、山賊たちの襲撃を退けることができたのはアーベントの決断あってのことだ。……しかし。
町の様子を見ればわかる。町の人々はきっと怯えてしまった。アーベントの力を、そして、自分の存在を。
「……私のせいです」
小さく、アリアドネが言った。
アーベントは、この町によく馴染んでいた。暖かく町の人々はアーベントの存在を受け入れていた。……自分が転がり込まなければ、アーベントは今も町の人々と他愛のない話をしていたはずなのに。
「気にすんなよ」
煙草の煙を吐いて、アーベントは笑ってみせた。
「お前は城の外に出たかった、それを実行して見せたその勇気は正しい。……そして、俺のところにお鉢が回ってきただけさ。俺がやらなきゃ、誰かがお前を守っていただろう」
優しい笑顔を見上げ、アリアドネは唇を噛む。潤んだ瞳を見て、アーベントはまた、アリアドネの頭を優しく叩いた。
「お前はよく泣くなあ、泣き虫」
からかうような言葉だった。唇を開きかけたところで、アーベントは続ける。
「それでいいんだ」
慈しむような声音だった。思わず唇を閉じる。溢れ出した涙を、太い指先が拭っていった。
「よく泣け、よく笑え。木々が風に揺れ、ざわざわ音を立てるように。その声音は元気な子の証。……親父がよく歌ってたもんだ」
懐かしむように、アーベントは聴いたことのない歌を一節歌った。不思議と、心にすとんと落ちてくる。そんな歌だ。血が知っているのかもしれない。
「さて、追い出される前に片してしまおう。……出ていくときくらい、清々しくな」
ちっとも気にしていないような声で言う。気を遣ってくれていることがよくわかった。アリアドネは頷くと、「手伝います」と近場の荷物に手をつけた。
その時だった。
がたん。
戸が開く音が聞こえた。
2人が一斉にそちらを見る。そこには、町の男が2人立っていた。
「アーベント、アリアドネ。……町長が呼んでいる、集会場に来てくれ」
遅かったか。
アーベントがつぶやくように言ったのを、アリアドネは聞き逃さなかった。
怯えたように身を竦ませるアリアドネの肩を、アーベントが優しく抱く。その掌から伝わる体温が、アリアドネの縮こまった体を少しだけ緩ませた。
「行こう」
アーベントが歩き出す。アリアドネはそれについていくようにして、ゆっくりと歩き出した。
町の集会場は奥にあり、主に祭りの中心となったり、有事の際集まる場所となっている。
しんと静まり返った町を歩き、2人は集会場の大きな戸の前に立った。男たちは戸の両側に立ち、合図を取り合う。……おかしい。
咄嗟にアーベントはアリアドネを背に庇った。……戸が開いた瞬間、矢が飛んできたらことだ。鹿や野兎を狩るのに、弓を使う者たちを知っている。弓と矢があることも。
ぎいい……
重い音とともに、戸が開く。そしてその戸の内側から、何かが飛んでくるのが見えた。
種を用意しなかったのは誤算だった、まさかここまで火急に物事を進めようとするとは……。
アーベントの思考は、そこで途切れた。
ばしゃん。
水のようなものをかけられ、アーベントは腕で顔を覆う。しかし、すぐにそれが水ではないことを知った。
「……酒?」
かけられた液体からは、酒の香りがした。しかも、果実酒。赤色のその酒は、ブーベと呼ばれる実だ。
北に位置するネフリティス王国、しかも森からやや離れたこの地域ではあまり多くは採れない。故に、祝い事の際にしか飲めない貴重な酒だ。
そしてこのチェルルには、その貴重なブーベの果実酒をあろうことかぶっかけるという風習がある。……町に大きく貢献したものなどは、その対象となる。
「よおアーベント! 辛気くせえ顔してんじゃねえぞ!」
「アリアドネちゃん、こっちにおいで。お菓子を焼いたから食べましょう」
集会場には、町の人々が集まっていた。
中には焼かれた肉、魚。パンに焼菓子、果実酒や、同じブーベで作られたジュースなどが並べられている。
「アーベント! アリアドネ!」
人々の中から飛び出して来たのは、布を頭に乗っけた少年。……ネモだ。
「聞いたよ! アーベントが山賊をおっぱらったんだろ!」
ネモはアーベントの腕を引き、集会場の中へと誘う。それに引きずられ、アーベントは中に入った。アリアドネはそれに、慌ててついていく。
「おいアーベント! ネモに聞いたぞ、狼の件でも使ったんだって?」
「まったく、この男は男のくせに臆病だね! 聞いてりゃその時も祭りができたのにさ!」
「そうだそうだ! ブーベの酒を飲める機会を減らしやがってばっかやろう!」
男衆はすでに酒で出来上がっている者もいた。「お前らもう飲んでやがるだろ……」とアーベントがつぶやく。
「アーベント、そしてアリアドネ」
町の人々の並を割るようにやってきたのは、チェルルの町長だ。彼は2人の前に立つと、柔らかな笑みを浮かべてこう言った。
「戸は閉めておこう。……布を取りなさい」
アーベントが一瞬たじろぐ。その隙に、戸を開けた男がアーベントの布をひょいと取り去った。
「うわっお前っ」
ばさりと、夏の木の葉のような緑が肩に落ちた。慌てて、布から零れ落ちそうになる簪を受け止める。その横で、ネモがアリアドネの布を取った。薄い、若葉色の髪が落ちた。
「わあっアリアドネの髪、初めて見た! 母ちゃん、葉っぱみたいできれいな色!」
人並みの中で見ていたモナが、うんと大きく頷いた。町の女衆が、口々に言う。
「本当に。女の子がこんな綺麗な髪を隠しておくなんてねえ」
「もったいないよ、本当に」
「ああ、飾ってあげたいわあ」
おどおどと混乱しているアリアドネの手を、ネモが握る。もう片方の手で、ネモはアーベントの手も握った。
「さて、皆の衆。我々チェルルの町の薬草売は、偉大なるベルレの大空樹の加護を受け生まれた者だった。アリアドネも、その加護を受けている。女神の加護を受けた2人を無碍にしては、来年の麦がどうなるかわかったものではないと思わんかね?」
一斉に声が上がった。そうだそうだ。
「そして、我が町を救ってくださった。加護を我々の為に使い、血を流すまいと守ってくださった。……そのような者を、歓迎しないわけもなかろう?」
そうだそうだ。
「では、祝杯を上げよう! 偉大なる女神に、大空樹に、この2人に!」
わあ、と歓声が上がった。
ぽかんと口を開いてから、アリアドネは隣を見る。
隣では、アーベントが握られた簪を見つめていた。
「……エアル、撤回するよ。……ああ、人間たちはなんと……おおらかなことか」
微笑のような、苦笑のような。複雑な表情を浮かべて、アーベントはつぶやく。
しかしその後すぐに、アーベントは男衆に引きずられていった。「やめろって!」と声を上げるアーベントに、容赦なく果実酒がかけられていく。
「あ、あの、もったいなくは……」
アリアドネが言うと、町長はかっかと笑った。
「あれはな、魔除けの加護を意味するのだよ。果実酒をかけられた者は、一切の魔を振り払う力を得るとされている」
そういう風習なのだよ。そう言われ、アリアドネはゆっくりと頷いた。
「さ、アリアドネ。男はほっといて、こっちにいらっしゃい。頭の採寸してあげる」
力強いモナの腕が、アリアドネを引っ張った。
「え、頭の?」
「そうさ。どうせ被らなきゃならないんなら、綺麗な頭布をこしらえてやるよ。みっともないと思ってたのさ、ズタ布被ってるんじゃあせっかくのべっぴんが台無しさね」
そうそう、と女衆が頷く。その腕に引かれ、アリアドネも女衆に混ざった。
採寸されている間に食べた焼き菓子にも、ブーベの果実が入っていた。少し酸っぱかったが、菓子の甘みと合わさってちょうどよく、そういえば朝起きてから何も食べていないことを思い出した。一口食べた瞬間にきゅうと鳴った腹を、モナに笑われた。
アーベントを見ると、男たちに酒を飲まされていた。酒は苦手だ、とそういえば言っていた。……もうすでに顔が赤い。本当に弱いみたいだ。
「おいおいアーベント、もうかよ!」
「お前ほんと弱いなあ!」
「うるせえ!」
悪態をつくアーベントも、どこか楽しげだ。ほっとしたアリアドネは、もう一口、ブーベの菓子を口にした。
祭りは夜になっても続き、知らない歌を聞いた。何度も聴いたから、覚えてしまった。
か細い大地を耕そう。種を植え、子を育てよう。
我ら民、森に祈って太陽を仰ぎ見よう。
人の大地を守り耕そう。
誰かが勝手に、一節を変えて歌った。本当は「寒さに負けるな麦よ人よ」なのに、いつの間にかそれが本当の一節のようになっていた。
「ヒューレに負けるな我ら人よ」
恐れを抱くな。異物と退けるな。
彼らもまた、同じ心を持つ同士だ。
「これがこの町の祭り唄だよ」
モナが言う。それを聞くと嬉しくなって、アリアドネも混ざって歌った。
「お前まで歌うなよ、アリアドネ……」
すっかり酔って柱の影に座り込んだアーベントが、小さく呟いた。
「そうか、襲撃は失敗したか」
静かな玉座の間に、声が響く。
夜になったその場所は僅かな灯りが灯るのみで、薄暗い。その背後には、大空樹がそびえている。
シニセスは立ち上がり、息を吐いた。
「ならば、次の策を動かせ。……なんとしてもアリアドネを連れ戻すのだ」
わかっております。
若葉色の髪を揺らし、傍らに立っていた女性が歩き出した。それが玉座の間を出てから、シニセスは大空樹に顔を向ける。変わらず天に向かい両腕を伸ばすその樹に、はっ、と短く息を吐いた。
「貴様の差金か? ベルレよ」
その声に答えるものはいなかった。