玉座の間には緑の香りを含んだ風が吹き込んでいた。
玉座の背後は窓も壁も無く、柵で囲われているだけだ。その向こうには、ベルレの大空樹がそびえている。風が吹き込む空間だが、その風は暖かく優しい。
それもそのはず。城が建つこの場所はヒューレの森、女神の加護が行き届いた常春の空間だ。たとえ厳しい冬の最中であっても、この場所だけは暖かい。
玉座に座るシニセスは報告を受けた直後だった。下がれ、と低い声が告げる。玉座の前に伏した男は1度の礼の後、玉座の間を後にした。
「チェルルにアリアドネがいることは確かだろう」
告げる。
横にいた女性が「そうでしょう」と頷いた。
「だが、1度失敗した後だ。……そう長く留まるとも思えん」
女性も頷いた。
王が関与し、山賊を向かわせたことは知っているだろう。アインレーラの片目を奪うことで牽制したとはいえ、それだけで騎士団が動きを止めるとも思えない。まだ、動き続けている。現に、山賊を捕らえたのは騎士団たちだった。
騎士団は、国王の権力の届かない場所。独立した組織として成り立っている。その理由は民を守るため、とされている。
例えば山賊などが現れ、暴れまわっている場合。それが王の耳に届いたとしても、軍を動かすまでに時間がかかってしまう。その間にも、山賊は暴虐の限りを尽くすだろう。だが、王の力無くとも動ける騎士団があれば、その時間を大幅に短縮して動くことができる。
一応、騎士団と王家は同盟を結んでいる。王家は騎士団を助け、騎士団は民のために動くことで王家を支える。その制度を作り、騎士団を結成したのは先々代の王だった。
シニセスはその騎士団を、脅威と感じていた。しかし、民によく慕われている騎士団をなんの罪もなく咎めたとあっては、民が不信感を抱くことになるだろう。
故に、アインレーラとアリアドネの婚姻を決めた。王家の中に騎士団を引き入れること、それが目的だった。
「アリアドネがチェルルの町を出る前に、なんとしてでも連れ戻す」
シニセスはその口元を、歪に歪めた。
第三王宮から見えるのは、美しい森だ。
玻璃窓から見えるその森を、アインレーラは青い瞳で見つめていた。
なんとも美しい森だ。常春のヒューレの森は、冬でも暖かい。それを、何度も行き来する自分はよく知っていた。冬でも花が咲き乱れ、森は葉を茂らせ、この国に豊かさをもたらす。
寝台から立ち上がり、窓枠に手をかけようとする。その手が宙を舞った。
「ッ」
「アインレーラ様!」
危うく転びそうになったところを、ニアが受け止めるように支えた。自分よりも太くたくましい腕が支えている。自嘲気味に、アインレーラは笑った。
「すまない、ニア。……不便なものだな」
そう笑うアインレーラの左目を覆うように、包帯が巻かれていた。王の剣で斬られた傷だった。
王はアインレーラの嘘を見抜き、その罰として左目を奪った。片目を失えば、距離を掴みにくくなると言う。それにより、二度と剣を握れぬようになった騎士を、アインレーラは見たことがあった。
剣を握れずとも、自分は次期騎士団長として立つだろう。団長に必要なものは剣の腕ではなく、騎士たちの心を理解し、そしてそれを采配する力。それを、現団長であるクロムハウザーはよく示していた。
クロムハウザーは今、病に伏している。故に、王城に赴くのはアインレーラの仕事となっていた。現在は、傷を理由にやや滞在期間を伸ばしていたにすぎないが……。
「アインレーラ様」
両開きの戸の向こうから、声がする。アインレーラはニアに支えられながら、ようやく椅子に腰掛けた。
「入れ」
声の後、戸が開かれる。そこにいたのは、緑に塗られた鎧に身を包んだ男。王の近衛兵だった。
「近衛兵……? 何故そのようなものが、アインレーラ様に」
「私がお願いしたのです」
近衛兵の背後から、1人の女声が現れた。その姿に、ニアは見覚えがあった。……いや、見覚えがあったどころではない。知っている。
「ルーベラ、何故」
ルーベラ。王城に住まう王室教育係。そして、チェルルにてアリアドネを守るヒューレの男……アーベントの姉でもある。
「アインレーラ様直々の頼みとあっては、断るはずもございません。……それ以上に、アリアドネ様の身を案じて、ですが」
にこやかに言い、ルーベラはアインレーラの前に立つ。
「私はこの王城に、信頼できる方を知っていたのですよ。それがこの近衛兵です。王の近衛となれば、王の話もよく聞こえるでしょう」
所謂、密偵だ。ニアは近衛兵を見る。その顔や表情は、兜で隠され伺えない。
「信頼できる……しかし」
「ニア様の心配はごもっともです。……しかし、こちらを見れば納得してくださるでしょう」
ルーベラは近衛兵を見た。近衛兵は一度頷き、兜を外してみせる。
兜から、緑色の髪がこぼれ落ちた。ヒューレ、とニアが言葉を漏らす。
「……私やこの者と同じように、王城には何人かヒューレがおります。それは、国民に『国王はヒューレと袂を分かったわけではない』と示すため。……そして、外に出たヒューレたちにわかりやすく伝えるためです。人質がいる、と」
近衛兵は一度頭を下げる。その後、口を開いた。
「国王は、チェルルを攻めるおつもりでしょう。その証拠に、王国軍総帥の妻である第一王女、バルザック様に命を下しておりました。アリアドネ第五王女がチェルルを出る前に、連れ戻せと」
王国軍が動く。
ニアとアインレーラにも、緊張が走った。重苦しい部屋の中に、緑の香りを含む風が吹き込む。
「……山賊を理由に使い、王国軍を出す。そしてチェルルを焼き、逃げ場をなくすというわけだ」
山賊討伐は主に騎士団の仕事ではあるが、王国軍が動かないというわけでもない。騎士団が最初に動き、騎士団でも処理しきれなければ王国軍も動く。そういったことがなかったわけではない。
「アインレーラ様」
ニアがアインレーラを見る。
アインレーラはふ、と微笑みを浮かべた。
「これは、寝ているわけにはいきませんね」
隻眼となった右目。
その青い瞳には、強い光がまだ、宿っていた。
鳥が鳴く。チチチ、と可愛らしい声が聞こえた。
夏が近い。空は徐々に高さを増していき、青色は濃く鮮やかになりつつあった。
祭りに近い宴から、すでに数日が経っていた。半ばまで片付けられていた家はすでに元に戻りつつあり、町にはいつもどおりの活気が溢れている。
変わったことと言えば、アリアドネの頭布が刺繍のいれられた鮮やかな色のものに変わったこと。アーベントがたまに、布を外したままで客の応対をするようになったことだ。
決して大っぴらにはしないものの、町の人々の前ではヒューレらしい言動も増えた。さすがに外から来た人間に明かすのはまずいということで、町の人間だけにだが。
アリアドネは薬を布袋に分けると、それを持って店の外まで駆け足で戻った。
「これです、どうぞ」
笑顔でそう言う。受け取った町の男は、「ありがとう」とアリアドネに笑った。
「にしても、さすがはモナ。町一番の仕立て屋なだけある。良い頭布をこしらえてもらったもんだ」
似合ってるよ、と言われ、アリアドネは頬に朱をさした。嬉しいが、少しだけ恥ずかしい。
「おい、アリアドネを口説いてるつもりか? お前、冬には嫁さんもらうんだろ?」
布を外したまま、切り取られた枝から葉を落とすアーベントが呆れ声で言った。「ばっかやろう」と男は笑う。
「隣国のフリーレンじゃ、男はみんな女を褒めるっていうじゃねえか。俺が真似して何が悪い」
「ここはネフリティスだ大馬鹿」
いつもどおりのやりとりに、アリアドネもくすくすと笑い声をこぼす。男は薬を受け取ると、アリアドネの手に銅貨を落として去っていった。
「なんだか、皆さん浮足立っているみたいです」
アリアドネが言う。
活気に溢れているのはいつものことだが、最近は輪をかけているようだ。アーベントは「ああ」と声を漏らした。
「夏至祭が近いんだ、そのせいさ」
夏至祭? そうアリアドネが首をかしげる。アーベントは葉を落とした枝の皮を、ナイフで削り始めた。
「夏至は夏の初めだ。作物は夏が大事な時期だからな、天候の安定と作物の健やかな成長を願うのさ。……それにかけて、子供たちが健やかに育つよう願う祭りでもある」
へえ、と聞くアリアドネに、アーベントは笑顔を向けた。
「お前も参加すると良い。お前も子供なんだから、成長を願われておかしくねえ。それに、祭りなんて参加するのは初めてだろ?」
ぱっとアリアドネが笑顔になった。その顔を見て、少しアーベントも嬉しくなる。
子を持つ親の気持ちなのか、それとも誰かが喜べば自然と嬉しいものなのか。子を持ったことのないアーベントにはまだ理解ができなかったが、アリアドネが喜んでいるなら良しとすることにした。
戸を叩かれる音に我に帰った。見れば、知らない顔が立っている。アーベントはすばやく布を巻き直した。
「はい」
アリアドネがその間に応対する。おそらく、商人か旅人かがチェルルに立ち寄ったのだろう。
「ここが薬草売かい? 馬の調子が悪いんで、ちょっと薬をもらいたいんだ」
よくある話だ。長旅を続ければ、馬も調子を崩す時がある。「アーベント」とアリアドネが呼んだ。
「お馬さんのお薬はまだ……」
「ああ、まだ教えてなかったな。今取ってくるから」
アーベントは倉庫に姿を消す。アリアドネは男を見上げると、「すみません」と謝った。
「見習いさんか、あの人の娘かい?」
「いいえ、預かってもらっているんです」
「そうかい、お名前は?」
「アリアドネです」
王女の名前だ、縁起が良い。男がそう笑うので、苦笑した。……王女とは自分のことだ。それを指摘される度に、第五王女の話題が上がる。亡くなってしまわれて、と。
しかし、男がその話題を出す前に、アーベントが戻ってきた。袋を渡し、「お題は2枚でいいよ」と無愛想に応対する。
「2枚か、安いな。ありがとう、助かるよ」
「いいさ。餌に混ぜて食わせな」
男はもう一度礼を言い、去っていく。それを見送ってから、アーベントは店の中に戻った。
「ちょうどいい、今の薬も教えてやるよ。こっち来な」
「はい!」
アリアドネは元気よく返事をし、アーベントを追って倉庫に入った。
見知らぬ男はアーベントの店を出た後、ふらりと路地に入っていった。
そこにいたのは、1人の男。彼も町の人間ではない。男はもう1人の男に近付いていった。
「山賊の話は本当だな。アーベントという男が薬草売をしている。アリアドネという娘を預かっているらしい」
「ならば、その男が山賊の言う木人か」
木人、すなわちヒューレのことだ。多くの場合、蔑称として使われる。
男が頷くと、もう1人の男は言った。
「俺はこれを国王に伝える。お前は町に滞在し、様子を見張れ」
「わかった」
男たちは路地で別れる。男は何食わぬ顔で路地から顔を出すと、怪訝そうな顔をした町の人に笑ってみせた。
「初めての町は迷ってしかたないな。宿屋はどこだい?」
常春の空は美しく澄み渡る。何も知らない鳥たちが、チチチと美しく鳴いていた。それに合わせるように、素知らぬ顔で木々も歌う。のどかな風景の下で、アインレーラはまるで天気の話でもするように言った。
「予想が正しければ、すでに王の息のかかったものがチェルルにいるでしょう。急ぎます」
「しかし、アインレーラ様!」
第三王宮の前。馬に乗り込んだアインレーラは、駆け寄ってきたニアを見て微笑んだ。
馬には荷物がすでに積み込んである。長く居座るのも申し訳ない、と、城を出るところだった。……実際には、アーベントたちに危機を伝えに行くわけなのだが。
「アーベント様にあれだけ言ったのです。ここで寝ていたら、笑われてしまいますよ」
それより、とアインレーラは言う。
「ニア、お前こそ休んでいたらどうだ。ここ最近、チェルルと城を行ったり来たりだろう」
敬語の外れたアインレーラの言葉に、ニアは奥歯を噛んだ。整った顔を歪めた後、言う。
「問題ない。……休んでいてたまるか」
柄悪く言ったニアを、咎めはしない。ふ、とアインレーラは笑うと、
「なら、すみません。馬を走らせてください。……うまく走らせられるかどうか」
片目を失った今、以前のように自在に馬を走らせることは難しいだろう。なんせ、真っ直ぐ歩くことすらままならない体だ。
わかっています。ニアは言うと、アインレーラの馬に乗った。手綱を持ち、「掴まっていてください」と声をかける。
「飛ばします」
ぱしん。
手綱が馬に叩きつけられる。それと同時に、2人を乗せた馬は走り出した。
同じ頃、玉座の間。
やってきた男、王国軍の者がシニセスの前に跪いた。
「ご報告申し上げます。チェルルの町の薬草売の店にて、アリアドネ様を確認。その店にいたアーベントという男が、ヒューレの男と思われます」
まるで詩でも読むように、朗々と男が語る。その言葉に、シニセスの動きがぴたりと止まった。その様子に、横にいた女性……第一王女、バルザックが顔を覗き込んだ。
「陛下、どうされました」
いや、とシニセスは小さく首を横に振った。若葉色の髪が、その動きに合わせて揺れる。片腕を振って王国軍の男を下がらせると、クク、と低い笑みを漏らした。
「思い出した名前があっただけだ。……そうか、アーベントだったか」
名を忘れた男。顔だけははっきりと思い出せる男。炎が踊る森の中で、自分を見つめていたあの青色の目。夏の木のような、緑の髪。
その名を思い出した。そう、エアルに守られ生き長らえたあの男! エアルの屍の前で泣き崩れることしかできなかった弱いヒューレ!
無力な男、その名はアーベント!
「……バルザック、お前は城に残るといい」
弾かれたように、バルザックはシニセスを見た。笑みを浮かべたままのシニセスは立ち上がり、玉座を降りていく。
「代わりに私が出よう。……旧い知人に会いたくなった」
かつ、かつ。靴底が硬い石造りの床を打つ。その音とともに去っていくシニセスに、バルザックは一度礼をし、その後深い溜め息をついた。
ひらりと、裾の長い服がはためく。
バルザックの背後で、ベルレの大空樹は風に合わせて歌った。ざわざわと、素知らぬ顔で。全てを知っているはずの、女神の声で。
「何、婆さんが?」
話を聞いていたアーベントは、煙草の煙を燻らせながら言った。
「ああ、そうなんだよ」
目の前の男が頷く。それと同時に、倉庫に引っ込んでいたアリアドネが戻ってきた。
「はい、これです。……何のお話をしていたんですか?」
言われたとおりの薬草束を持ってきたアリアドネが、2人を見て首をかしげる。ああ、とアーベントが声を上げた。
「こいつの婆さんが、エルビオ近くの村に住んでるんだけどな。なんでも、ちょいと体調が悪いらしい。医者はいるらしいが薬草売はいねえらしくてな」
ふむ、とアーベントは考え込む。アリアドネは2人の顔を見比べると、
「その村に、行くのですか?」
さも当然。そう言いたげなアリアドネに、ついアーベントは笑ってしまった。
そう、この娘は元王女。町を出てどこかに行く苦労を知っているようでいて、実は知らない。飛び出してきただけなのだから。
だが……ほっとけるものでもない。
「アリアドネ、エルビオの町が見たいか?」
エルビオ。ここから北東に伸びる道を行くと着く港町だ。最大の港町はもっと南に位置しており、そこでは漁業も船を使った貿易ももっと盛んに行われている。
最北の港町であるエルビオでは、氷海から切り出した氷を主に扱う産業が発展していた。
ぱあっとアリアドネの顔が明るくなる。おいおい、と苦笑したのは町の男の方だ。
「いいのかよ、そりゃちょっと期待したけどさ」
「いいさ、あれだけ盛大に救われたんだ。ちょっとくらい恩返ししねえと」
そういうつもりじゃなかったんだけどな。
そう言う男に、それに、とアーベントは付け足す。
「もう引っ込みはつかねえよ」
アーベントが示したアリアドネは、すっかりとまだ見ぬ港町を夢想していた。虚空を見つめて頬を赤く染める顔を見て、男も苦笑する。
「頼んでいいかい?」
「もちろん」
アーベントが言う。アリアドネの肩を叩いてから、アーベントは立ち上がった。
「そうと決まりゃ、準備しねえとな。ちょいと長旅になる、お前も手伝えよ?」
アリアドネはアーベントを見上げると、「はい!」と嬉しそうに頷いた。
こうして、2人の旅の計画が始まったのだった。