遠い日の影

 ランプに灯された灯りが、ぼんやりと部屋の中を照らし出した。朱い光が浮かび上がらせたのは、草や葉、木が置かれた部屋の中だった。

 部屋の中は青い青い草の匂いで満たされていて、まるで森の中にいるかのようだ。アーベントは1つしかない椅子に少女を座らせると、石造りの炉に火を入れた。

 座っている少女は、頬に涙の跡はあるものの、もう泣いてはいないようだった。しきりに部屋の中を珍しげに見ている。服装は、この辺りの町の人間では見られない服だった。布も作りも良く、裕福な家の娘であることがわかる。引っかかるのは、どこかで見たような服の作りなことだ。

「……名前は?」

 炉の側に置いてある瓶を開けながら、アーベントは言う。少女ははっとしたようにアーベントを見ると、

「……アリアドネ、です」

 そう名乗った。

 この国では多い名前だ。ネフリティス王国の第五王女の名前であるからか、あやかってその名を生まれてきた娘に付ける親が多い。

……多いのだが。

「アーベントだ」

 アーベントは短くそう名乗ると、安物の茶器に瓶の中身を入れた。細かく刻んだ薬草を乾かして炒ったものだ。それをテーブルに置き、今度は小さな鍋に水を流し入れる。それを炉の上の金具にひっかけると、ようやく壁に背中を預けて落ち着いた。

「……お前、ヒューレか?」

 ぎくり、と。アリアドネが動きを止めた。

 しばし視線を右へ左へと動かした後に、彼女はこくりとうなずく。しかしすぐに顔をあげると、

「父が、ヒューレなんです。母は普通の人で……半分だけ、ヒューレで」

 アーベントは訝しげな視線でアリアドネを見た後、深くため息をついた。がしがしと、布を取った頭を掻く。深い緑色の髪が揺れた。

「……ヒューレが、王族の名前を子につけるか……」

 つぶやいて、再びアーベントはアリアドネを見た。花色の瞳が、こちらを見ている。

「それで、その親はどうしたんだ。はぐれたのか」

 アリアドネは唇をぐっと噛みしめると、うつむいた。うつむいたまま、黙り込む。

 部屋の中に降りた沈黙に、ぼこぼこと鍋の中の水が泡立つ音が響いた。アーベントは壁から背中を離すと、炉に入れた鍋を取った。中身を茶器に注ぎ入れると、ふわりと、香ばしい香りが広がる。

 アリアドネは茶器を見つめて、ぱちくりと瞬きをした。今まで、嗅いだことのない香りだ。今まで飲んだどのお茶とも違う香り。茶器を少しだけ揺らした後、アーベントは木をくり抜いて作ったカップに中身を注ぎ入れた。

 ゆらゆらと、薄い琥珀色の液体が揺れている。アーベントは自分のコップにそれを注ぎながら、「飲め」と短く言った。

 恐る恐る、アリアドネはコップを両手で取る。器は程よく暖められ、冷えた指先を暖めてくれた。

 ふー、ふー、と。何度か息を吹きかけてから、ようやく唇をつける。舌に流れ込んできたお茶は熱かったが、火傷するほどではない。少し苦くて、だがそれ以上に、香ばしくて深みのある味が心を落ち着けていく。

「それも薬草。心を落ち着ける効果がある」

 言いながら、アーベントもそれを口にした。壁に背を預けて立ちながら、暖かいお茶を嚥下する。一息ついてから、アーベントはアリアドネを見た。

「とりあえず、今晩はここにいるといい。明日の朝になったら、近場の商人にでも……」

「あの」

 アーベントの言葉を遮って、アリアドネは口を開いた。

「よければ、ここに置いてくれませんか……?」

 アーベントが驚いたように目を見開く。アリアドネは「えっと、その」と小さく言った後に続けて言う。

「私、薬草や草木について、少しですが知識があります。なので、お役に立てるかもしれないですし……」

 それに。

 つぶやいて、アリアドネは口を閉ざす。次の言葉を言わずに、アリアドネはコップの中野液体を見つめた。

 赤い炎が、ぱちんと音を立てた。乾いた薪木を、炎が美味そうに食っている。薪木が倒れて、火の粉がぱっと散った。

「……言っとくが、うちはそんなに裕福じゃねえ。贅沢な暮らしはできねえぞ」

 こくんと、アリアドネはうなずく。

 揺れる髪が、見つめる瞳が、遠い影と重なった。朱い炎がゆらゆらと揺れて、彼女の顔に揺らめく影を映す。

 アーベント。

 呼ばれた気がした。

「……ったく、しょうがねえ」

 腰に巻きっぱなしだった小さな袋から煙草を取り出すと、炉の炎に軽くかざして火をつけた。咽るような香りの煙がふわりと上がる。

 それを咥えて煙を吸い込み、ため息とともに吐き出した。

「わかった、うちで面倒見てやるよ。……仕事も教えてやる」

 ぱっと、アリアドネの表情が和らいだ。初めて笑顔を浮かべ、嬉しそうにうなずく。

 まったく。そんな顔されたら、「仕事を覚えたら出て行け」なんて言えないだろうが。

 茶ぁ冷めるぞ、と話題をそらすように言って、アーベントは白い煙草の煙を見つめる。重なった影を振り払うように、息を吐いた。


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