歩き出した彼女、歩くのを止めた彼

 ゆっくりと、意識が浮上してくる。まぶたを持ち上げると、天幕付きの寝台に自分が横になっていることがわかった。ここしばらく横になったことも、見たこともなかった、自分の寝台。

 薄い幕の向こうに、誰かがいるのが見えた。そっと幕をめくって、その人物を見る。彼は自分に気づくと、頭を下げた。

「アリアドネ様……お目覚めになられましたか」

 アインレーラの姿が、そこにあった。ベッドの横に置かれた椅子に座り、アリアドネを見つめている。

「……申し訳ありませんでした。私が、至らず」

 ゆっくりと、アインレーラは再び頭を下げた。

「再び、チェルルの町に戻りたいというのであれば……お手伝いいたします」

 声を潜め、しかし真っ直ぐに、アインレーラは言う。

 静かな部屋の中に、鳥の声が聞こえてきた。常春の森に造られた城には、いつものどかな鳥の声が聞こえている。

「……いいえ」

 はっきりと、アリアドネはそれを否定した。

「私は、ここでやらなければいけないことがあるのです」

 顔を上げたアインレーラの、青い瞳を見つめる。花色の瞳が、にこりと微笑んだ。

「私たち王族が、いかにヒューレを虐げ、民を軽んじてきたか……それがよくわかりました」

 故郷を奪われ、孤独に生きなければならなかったヒューレたち。

 よく見知って、優しくしてくれた人の死。

 彼らのために、彼女のためにできること。私にしか、できないこと。

「ここでしか、何も成せないのです」

 ちちち、と鳥が鳴く。

 アインレーラはその言葉を聞くと、ただゆっくりと、アリアドネの前に跪いた。

「このアインレーラ。……貴方のお側で、それを支えさせていただきます」

 ありがとう。

 花色の瞳が、微笑んだ。

 

「此度の家出は不問としよう。アリアドネも気難しい歳だ、そういうこともあるだろう」

 玉座にゆったりと座っているのは、久しぶりに顔を合わせた父親だ。アリアドネはその前に立ち、静かに頭を下げていた。

「しかし、夏至に間に合ってよかった。夏至祭に合わせて建国100周年のパレードを行う。そこに、お前もいなくてはな? アリアドネ」

 はい。

 そう返事をし、アリアドネは顔をあげる。

 若い姿のままの父親が、そこにいる。その姿のまま、彼は100年の長い年月を生きている。それは、彼の冷たい瞳を見れば理解できた。

「同時に、お前とアインレーラの婚姻も進めよう」

 そう言って、彼は玉座を立つ。そのまま彼は玉座の間を出て行った。

 それを見送り、アリアドネは玉座の後ろにそびえる空樹を見た。彼も……チェルルにいたとき、一番そばにいてくれた彼も、この空樹を見て育ったのだ。

 アリアドネは懐から、かんざしを取り出した。旅のお守り、と、彼が持たせてくれたものだ。それを、持ってきてしまった。しゃら、と。美しく鈴が鳴る。

 アーベントは今、どこで何をしているだろう。

 それが、一番心配だった。

 


 城下町、サフィリア。

 大通りに面した街並みこそ美しく活気にあふれているが、路地を一本入ればそこは、怪しい活気に溢れていた。

 花町、そう呼ばれる場所がここだった。娼館が立ち並び、肌の露出が極端に高い女たちが男を呼んでいる。その一角、廃屋同然の空き家に、人がやってきたと噂が立っていた。

 見れば、たしかにそこには人がいる様子だった。窓には、妙な匂いのする葉が吊り下げられている。窓の向こうを見ると、なにやら葉や草が多く、ほとんど緑色しか見えなかった。

 そこからのっそりと出てきたのは、長身の男だった。まるで木のような男だ。頭には、異国の人間のように布を巻いている。目は夏の空のように青く、口にはどこで買ったのか、見慣れない煙草を咥えていた。

「いらっしゃい、ってことでいいのか?」

 家を覗いていた彼女は、ふるふると首を振った。彼女はこの辺りで仕事をしている娼婦で、アンザといった。美しく整えられた髪は黒く、その髪が売りだ。

「だろうな、来たばっかだし。……ここは薬草売だよ。できれば噂でも流しておいてくれ、良い薬草売がいるってさ」

 再び家の中に戻ろうとする彼を、アンザは呼び止めていた。

「あの……名前は?」

 彼はアンザを振り向くと、にこりともせずに名乗った。

「アーベント」

 花町に、アーベントという薬草売が来た。

 その噂は、少し経ってから、花町中に広がることになった。


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