アリアドネ・ネフライト

 ネフリティスの国王であるシニセス・エル・ヨル・ネフライトの子供。それがアリアドネ・ネフライトだ。

 森の中に作られた城で生まれたアリアドネは、教育係と、歳の近い第四王女のマキナの2人と学んだり遊んだりして暮らしていた。

 父親には片手で数えても指が余るほどしか会ったことがなく、母親からもそこまで愛情を得ることはなかった。

 そのうち、アリアドネにも婚姻の話が出た。相手は騎士団の跡取り息子。政略結婚であることは明らかだった。

 生まれてから死ぬ前まで、顔も覚えていない父の操り人形。良いように使われて、擦り切れて、踊らされる。そんな日々はうんざりだった。

 第一王宮から離れた第二王宮。そこがアリアドネの暮らす家であり、テラスから城下町のざわめきを感じられる唯一の場所だった。

 その日も同じように、テラスから城下町の風景を見ていた。そのうち、あの場所に行ってみたくなった。城の外に出て、自由に、自分の幸せのために暮らせたら。

 それをうちあけたのが、教育係だった。彼女は心優しいヒューレだったから、協力してくれると思ったのだ。

 実際、彼女は協力してくれた。彼女はアリアドネにお金と髪飾り、少しの食料をもたせ、城下町の外に行く商人の荷物の中に紛れ込ませてくれた。藁の中に隠れて、気がついたらチェルルの町にいた。

 どうしようと歩き回っているうちに、傷ついた男を見つけた。それがアーベントで、今に至る。

 

 

 煙草の灰が静かに伸びていく。じり、と。葉が燃えて爆ぜる音がした。

 その灰を落として、アーベントは言った。

「ならお前は本当に……王家の人間なんだな」

 絞り出すような声だった。アリアドネはうつむいて、「はい」と小さな声で言った。

 静かに、夜が更けていく。アーベントは煙草の火を消して、茶器を手に取った。

「喉乾いたろ、いれてやるよ」

 優しく、アーベントは言う。アーベントの後ろ姿を見つめて、アリアドネは言った。

「ヒューレは、王家を恨んでいるのですよね。……アーベントは」

 アリアドネの言葉を遮るように、アーベントは「言ったろ」とぶっきらぼうに言う。茶器の中の茶葉を変え、鍋を炉に入れる。

「俺は、恨みなんて忘れちまったんだ。それに……」

 手を止める。ぱちぱちと、爆ぜる炎を見つめて、言った。

「……子供に罪はねえ」

 ようやく目の前の椅子に座り、アリアドネを見る。アリアドネはアーベントを見て、またぼろぼろと泣き始めた。

「わ、たし、こんなにヒューレに、恨まれてるなんて知らなくて、それでっ」

 涙を零すアリアドネに、そっと近付く。指先で涙を拭ってやって、そして、ゆっくりとアリアドネを抱きしめた。

 すっぽりと、アーベントの腕の中にアリアドネがおさまる。柔らかい髪を撫でて、ぽんぽんと軽く叩いた。

「お前が気にするこたねえよ。……親の罪を、お前が背負うことはねえ」

 ぼこぼこと、湯が沸く音がした。ゆっくりとアリアドネを離して、頬に残った涙の跡を拭う。

「茶でも飲んで、今日は寝よう。疲れただろう」

 微笑んで、アーベントは言う。アリアドネはほっとした顔で、うなずいた。

 

 

 馬の蹄の音が近付いて、彼はそっと松明を向けた。

 暗い闇の向こうから、馬に乗った男が近付いてきた。ちゃき、と。鎧同士が擦れる音が響く。

「やはり、チェルルの町です」

 馬から降りて短く報告する男に、「そうか」とうなずく。彼もまた、鎧を纏った騎士だった。美しい金色の髪が、朱色の炎に照らされている。

「なら、明日にでも町に行こう。ニア、用意しておいてくれ」

 ニアと呼ばれた男は「はっ」と礼をし、そのまま馬に乗ってまた駆けていく。彼はそれを見送った後、ぽつりとつぶやいた。

「……チェルルの町か……あの人も、ずいぶんと遠くまで来たものだ」

 つぶやきは、夜の空に吸い込まれていった。 


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