「それじゃあ、ありがとねアーベント。また来るよ」
声が聞こえた。ゆっくりと、アリアドネの意識が浮上してくる。柔らかな毛布で包まれた身体をゆっくりと起こすと、窓から差し込む明るい光が、まだ眠気の残る目に朝を告げた。
ドアが閉まる音。乱れた髪を直しながら、アリアドネは寝室を出る。ドアを開けると、薬草を磨り潰していた器を洗うアーベントの姿が見えた。
「……アーベント?」
アリアドネが名前を呼ぶと、アーベントはこちらを見た。そして、ふ、とからかうように笑う。
「おはよう、ねぼすけ。とっくにお日様は空樹の上だぜ」
えっ、と。アリアドネは窓の外を見る。太陽は真上まで昇っていて、昼間の空に輝いている。くく、と。アーベントが笑う声が聞こえた。
「昨日、遅くまで寝れなかったんだろ? しょうがねえよ、気にすんな」
洗い終わった器を棚に置きながら、アーベントは言う。
たしかに、昨日は遅くまで眠れなかった。たくさんのことを考えすぎて、眠れなかったのだ。
だからといって、こんな時間まで寝てしまうなんて……。
ああ、と。アリアドネは顔を両手で覆った。
「ごめんなさい……あの、ちゃんとお仕事」
「いい、平気だ。それより、顔洗って着替えてこい」
頷いて、アリアドネは家の裏手へと出ていく。それを見送ってから、アーベントは窓の外を見た。
朝から、町には落ち着きがなかった。ざわめいているようではないが、妙に浮ついているような気がする。それも、悪い方向に。
煙草に火をつけて、窓越しに様子を伺う。白い煙を吐いたところで、戸が開いた。
「アーベント!」
元気よく店に入ってきたのは、ネモだった。頬を紅潮させて、興奮しているようだ。
「よお、どうした」
「どうしたじゃないよ! アリアドネはどこ?」
ぴょんぴょんと忙しなく跳ね回り、ネモはアリアドネを探す。アーベントは「落ち着け」とネモの頭を叩くと、ネモを覗き込んだ。
「何があったんだよ」
ネモは嬉しそうにアーベントを見ると、
「騎士団が来たんだ!」
からん。
ネモが言った瞬間、何かが落ちる音がした。見れば、寝室のドアの前にアリアドネが立っている。その手から、コップがこぼれ落ちていた。
「アリアドネ!」
何も知らないネモが、アリアドネに駆け寄る。その手を取ると、
「一緒に見に行こう! かっこよかったよ!」
そう言って、アリアドネを引っ張っていこうとする。「ネモ」と低い声で、アーベントはそれを止めた。
「悪いな、アリアドネはこれから一緒に仕事がある。他のやつと行って来い」
ええー、と。ネモは不満げな声を上げる。アリアドネはネモを見て、「ごめんなさい」と苦笑混じりに言った。
「ちぇ、一緒に見に行きたかったのに。アーベントのケチ」
「悪かったな。仕事終わってもまだいたら見に行ってやるよ」
さっさと行けと言わんばかりに、アーベントは手を振る。ネモは膨れっ面のまま、アーベントの店を飛び出していった。
それを見送って、アーベントはアリアドネを見る。顔は真っ青になっていて、血の気がない。やはりか。アーベントは小さく舌打ちをした。
「……お前を、連れ戻しに来たか」
きっと。そう小さくつぶやいて、アリアドネはコップを拾い上げる。震える手は、今にもコップを落としそうだ。その手から優しくコップを取ると、テーブルに置いた。
「……最近やってきた娘つったら、お前くらいだ。早々にここは割れるかもしれねえな」
言うアーベントに、「あの」とアリアドネは声を上げる。
「私、これ以上ご迷惑は」
言葉を遮るように、アーベントはアリアドネを軽く小突いた。痛みのない感触に、アリアドネはアーベントを見上げる。
「……帰りたくないんだろ?」
優しく、アーベントはアリアドネに問いかける。アリアドネは、ゆっくりとうなずいた。
「ですが、お気をつけください。……騎士団の方たちには、私の顔が知れています」
言われて、アーベントは昨日の話を思い出す。
アリアドネの婚約者は、騎士団の1人だった。それも、騎士団の跡取り息子。顔を見られたら、それだけでわかってしまう。
「……なら、なんとか会わせねえようにしねえとな。……一時的にでも町を……いや、かえって不自然か……」
ぶつぶつと、アーベントが考え込む。
家の外では、蹄の音が響いていた。
村の広場には、元気な子供たちの声が響き渡っていた。家の仕事を終えたのか、複数の子供が遊んでいる。彼は子供たちに近付くと、優しく声をかけた。
「やあ、君たち。ちょっといいかな」
子供たちは遊ぶのをやめ、彼を見る。そして、ぱっと顔を輝かせた。
「騎士団だ!」
「すごい、騎士団だ!」
嬉しそうに、子供たちの方から駆け寄ってきた。彼は背の低い子供たちに目線を合わせるように屈んだ。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」
子供たちは顔を見合わせて、「うん」と頷く。にこりと彼は微笑むと、
「アリアドネという女の子が、この町に来なかったかな」
アリアドネ? そう、子供たちは口にする。子供たちの中の1人、頭に不自然に布をかぶっている少年が口を開いた。
「アリアドネなら、薬草売りのお店にいるよ。アーベントっていう人の、親戚の娘さんだって」
最近来たんだよな、可愛い子だったよな、と。子供たちは口々に言う。彼は満足そうにうなずくと、
「ありがとう。お礼に、あとで西の宿においで。騎士団の馬を見せてあげよう」
わあ。
嬉しそうに、子供たちは笑顔になる。彼は立ち上がると、子供たちに手を振って広場から出た。
広場の出口には、もう1人、鎧を纏った男が立っていた。男に、彼はにこりと微笑んで見せる。
「アーベントという男がいる店を探そう」
男はうなずくと、早足でその場を去った。
町には、活気がある。空樹から遠く離れ、痩せている土地。しかし、人々の笑顔はたしかにあった。
いい町を選んだものだ。微笑んで、彼はそうつぶやいた。
戸を叩かれたのは、夜だった。
いい時間を選ぶものだ。アーベントはアリアドネを見ると、寝室に入っていろと指でしめした。アリアドネは頷いて、薬草を詰め込んだ倉庫に入る。それを見届けてから、アーベントは戸を開けた。
「何の用だ? 店なら閉めたぞ」
いつもの調子で、アーベントは言った。
目の前には、青年が立っていた。青の鎧は騎士団の証。彼は青い瞳を細めると、にこりと笑った。
「いい夜ですね、アーベントさん」
冷たい風が、戸から吹き込んだ。頭に巻いた布の裾が、揺れる。
「……生憎、俺はお前を知らない」
アーベントの低い声に、彼は「そうでしょう」と平然と言ってのけた。
「私の名はアインレーラ。アインレーラ・カイ・シュテルテ。騎士団の者です」
中に入っても?
涼やかに言う彼を、アーベントは家の中に招き入れた。
どうやら、アインレーラは1人で来たようだった。……少なくとも、そう見せたいようだ。
先程聞こえた足音は、少なくとも3人分はあった。外に待たせているのだろう、逃げ道を断つために。
慣れた様子で、アーベントは茶を入れ始める。座れ、と。椅子を指さした。アインレーラは優雅にその椅子に腰を下ろす。剣は下ろさなかった。
「アリアドネという少女をご存知ですか?」
思ったより早く、アインレーラは本題を切り出した。茶器に茶葉を入れながら、「アリアドネ、ね」と呟くように言った。
「そりゃ、俺が預かってる娘の名前だな。親戚の子でな、遠出するから預かっててくれと」
「今、どこに?」
笑顔を崩さないまま問うアインレーラに寝室を指さした。
「寝てるよ。もうとっくに、子供は寝る時間だ」
くす、と。アインレーラは笑った。
「そうですか。……ところで、アーベントさん」
足を組み、テーブルに両肘をつく。かちゃり、と。鎧が鳴る音がした。
「王家の第五王女が行方不明になっていることを、ご存知ありませんか」
ふわ、と。煙草の煙が舞う。火をつけた煙草をくわえて、アーベントは肩をすくめた。
「生憎、ここは城から遠いんでな。そういう話は伝わってこねえよ」
咥え煙草で茶をいれ、木のコップに注ぐ。あたたかな湯気を上げる茶を見つめて、アインレーラは微笑んだ。
「今年は国王が立ってから100年目の年。畑初めの祭りは、城下町では王家のパレードが催される予定なのです。……しかし、第五王女がいないとなれば、パレードは延期せざるを得ないでしょう」
知ったことか。言いながら、アインレーラの目の前に茶を置いた。咥えていた煙草を指で取り、煙を大きく吐き出す。煙草の香りが、部屋に満ちていく。
「あんたは、そんなつまらねえ世間話をしに来たのか? 悪いが他をあたってくれ」
茶ぁ飲んで帰れ。
アーベントはアインレーラを鋭い目で見る。アインレーラはそれでも、微笑みを崩すことがない。
「娘さんを、見せていただけませんか? 顔をひと目見て、王女ではないと確認したら、すぐに帰ります」
「生憎、寝てるんだ。また別の日にしてくれ」
「起こさないよう注意します」
「名前が同じ。それだけで見せてくれなんざ、聞ける願いじゃあねえ」
静かに、2人は見つめ合う。はあ、とため息を吐いたのは、アインレーラだった。
「……できれば、この手は使いたくなかったのですが」
言って、アインレーラは鞘に収められた剣で床を叩いた。その瞬間、乱雑に戸が開けられる。入ってきたのは1人の男と、1人の女だった。
男は騎士のようで、鎧を着ていた。短剣を女性の首元に突きつけている。女性の髪は鮮やかな緑。……ヒューレだ。
アーベントは目を見開く。そして、その女性を見た。
「……お前は」
女性とアーベントの顔は、よく似ていた。濃い緑の髪も、夜色の瞳も同じ。女性は静かに、だが鋭い目で、アインレーラを見ていた。
「彼女は、アリアドネ様の教育係です。……ここに来たときも思いましたが、あなた方はよく似ている。まるで、姉弟のようですね」
姉さん、と。アーベントは彼女を呼ぶ。女性はアーベントを見て、静かに首を振った。
「……アリアドネ様、いらっしゃるのでしょう?」
よく通る声で、アインレーラは呼びかける。
「教育係という立場をもらっておきながら、王女を外に出すとは。死罪は免れないでしょう。……ですが今出てくれば、私からお口添えすることもできます」
さあ、アリアドネ様。
言うアインレーラから離れるように、アーベントは後ずさる。その背中に、育てている木の葉が当たった。手探りで、その幹に触れる。
「いけません!」
それを制したのは、捉えられた女性だった。
「いけません、アーベント。空樹の加護をそのようなことで使うなど、あってはならないことです」
ぴたりと、アーベントの動きが止まる。アインレーラが、剣を抜いた。その切っ先を、アーベントに向ける。きらりと、炉の光りを反射した刃が光った。
「アーベントさん、あなたも動かないで。動いたら、その首をはねます」
そう言った瞬間だった。
「アインレーラ様、おやめください!」
倉庫の戸が開き、アリアドネは部屋へと飛び出した。刃も怖がらず、アーベントとアインレーラの間に割って入る。ち、と。アーベントは舌を打った。
「お前……っ」
「アインレーラ様、アリアドネはここにおります。どうか、アーベントとルーベラを傷つけないで!」
アインレーラはアリアドネの顔を見て、微笑む。ゆっくりと剣を鞘に収めると、片膝をついてアリアドネを見つめた。
「アリアドネ様、ようやくお会いできましたね。……共に帰りましょう」
女性……ルーベラに短剣を突きつけていた男も、短剣を収めて片膝をつく。ルーベラも、その場に跪いた。
「王から、命が出ております。今すぐ帰り、祭りの支度をせよ、と。……さあ」
「待ちな」
口を挟んだのは、アーベントだった。短くなった煙草を、炉に放り込む。かこん、と。燃え朽ちた薪が倒れる音がした。
「そいつは出たくて出たんだ。あんたらはすっこんでな」
アーベント。低く呼ぶ声がした。ルーベラだ。だが、アーベントは首を振る。
「……あなたこそ、引っ込んでいてもらいましょう。王族の問題に、庶民が口出しできるとも?」
新しい煙草に火をつける。煙を吐いて、アーベントは言った。
「そいつは、料理の仕方はおろか、茶のいれ方も知らなかった」
アインレーラが一瞬、笑みを消す。何を言い出すんだ、と言いたげな顔で、アーベントを見た。
「買い物の仕方も知らねえ。町の歩き方も、服の着方もだ」
「……それが、どうしたと言うのです」
当たり前だ、彼女は王族なのだから。そんなことを知らなくても、しなくても生きていける。知ったところで意味はない。
は、と。アーベントは笑った。
「何も知らない、幼ぇガキが。右も左もわからねえ場所に飛び出すほどいたくねえ場所に、あんたはこいつをまた戻すのか?」
高級な食事に慣れているだろう彼女は、アーベントの作る食事を美味そうに食べていた。教える知識を、楽しそうに覚えた。ネモと一緒に、嬉しそうに遊んだ。
彼女は子供だ。この国に溢れている、ありきたりな幸せというものを知らずに生きてきた、不幸な子供。
「……それでも彼女は、城に戻らなくてはいけません」
立ち上がり、アインレーラはアリアドネを促した。アリアドネは頷いて、アインレーラに歩み寄る。
「それが、彼女の責任なのです」
静かな声が、響く。
アーベントはアリアドネを見つめて、「そうか」とただ一言小さく言った。
「今までアリアドネ様をお守りいただき、感謝します。ですが、此処から先はご心配なく。我々がお守りいたします」
行きましょう。促され、アリアドネは開けられた戸から外へと出ていく。その後姿に、アーベントは言った。
「いつでも戻ってこい」
一瞬、アリアドネの足が止まった。冷たい風が、服の裾を揺らす。
「待ってる」
振り返ろうとして、アリアドネは動きを止める。そのまま前を向くと、静かに歩いていった。
最後に、アインレーラが礼をして戸を閉める。後には、アーベントが唯一人残された。
『それが、彼女の責任なのです』
アインレーラの言葉が、耳に残っている。煙草の煙を吸って、吐き出しながら、ただ呟いた。
「……重てえな」
りん、と。髪飾りの鈴が鳴った。