ライトブルー

 ――――時は巡り、また夏が来て。あの日と同じ、流れの岸。

 発車メロディの後、男性の声がアナウンスを告げた。後ろの席に座った女性2人組は、これから向かう先に思いを馳せているのだろう。どこに行く、何食べよう。そんな話をしている。きっと旅行客だ。

 横を見れば、隣の席はスーツ姿のサラリーマン。手帳を見つめたかと思えば何かを書き込み、それを鞄にしまってから、スマートフォンを取り出した。

 静かに。だが少しざわざわと。新幹線の中は軽いような、重いような、形容し難い空気が漂っていた。

 ゆっくりと、新幹線が発車する。窓の外を見ると、見慣れた駅前が見えた。ロフトの黄色い看板がやけに目立つ。改築されたイービーンズ、さくら野百貨店。ペデストリアンデッキには、多くの人が行き交う。それはすぐに後ろに流れて、見えなくなった。

 今日、俺はこの街にさよならをする。何度も遊びに来た駅前。アーケードのゲームセンター。魚臭かったアニメイトはイービーンズに移転して広くなった。

 そして。

 そして、故郷。海が間近にあったあの町とも、つい1時間ほど前にさよならをしてきた。もう帰らない、なんてわけでもない。お盆には帰ることになる。短い、本当に短いさよなら。

 気晴らしに、鞄の中から携帯ゲーム機を取り出す。黒のPSVitaの電源を入れたところで、ふと、耳に何かが届いた。

 圧し殺したような、泣き声。どこかで誰かが泣いている。声と言うより、震えている吐息。それは後ろの席の女性の声よりも、やけにはっきりと耳に届いた。

 自分も、少しだけ泣きたくなった。

 

 

 高校生の3年間は、長かったような短かったような、妙な気分を残して去っていった。もう少しいろんなことができたような気もするし、あれで精一杯だったような気もする。

 少し前に卒業式を終えたはずなのに、いつもと同じ時間に目が覚めてしまうのには笑ってしまった。3年というのは、なんだか短くて。でも身体に染み付いてしまうほどには長かったらしい。

 4月からは、東京にある大学に通うことになった。「一度都会を見ておけ」というのは、父の言葉だった。

 未だに進路に迷っていた3年の春に、父が言ったのだ。故郷を離れて、別の街を見るのも経験だ、と。その言葉通りに東京の、だが名門校ではない大学を受験して、見事合格。上京、ということになった。

 住む場所はなんとかしろ、と父は言って、東京に住んでいる父の古い友人の家に居候させてもらえることになった。なんでも、同じ剣道の道場に通っていた仲で、弟弟子らしい。東京で海運業をしていて、それも社長なんだそうだ。

 たくさんのことがトントン拍子に進んでいって、取り残されているのは自分の心だけらしい。こうして新幹線に乗っているときも、まだ心は故郷に残っている気がする。

 実家の神社。長い長い坂を超えた先の高校。小さな商店には、なぜかたくさんのウーパールーパーが売っていて、よく放課後に寄ってお菓子を買いに行った。おいしいお団子屋さんもあって、田舎だけど、あたたかい町。

 不意に、あの二人の後ろ姿を思い出して、故郷のことを思い出すのはやめにした。ゲーム機を操作して、ゲームに集中する。何度も遊んだゲームだけど、それしか今はすがるものがない。やっている間だけは、思い出すことをやめられる。

 青い青い海も。

 今は忘れたかった。

 

 

 新幹線で3時間ほど過ごして、降りたときには、見慣れた場所は遠い遠い彼方だった。

 降りてまず、人の多さに驚いた。狭く思えたあの乗り物に、これだけ多くの人が乗っていたことに驚く。大きな東京駅の中を迷子になりながらなんとか進んで、駅を出ると、灰色のビルが立ち並ぶ都会に立っていた。

 同じ国で、周りにいる人々も同じ言葉を喋っているのに、まるで異国みたいだ。とりあえずの荷物だけ詰めたリュックサックを背負い直して歩き出すと、人にぶつかりそうで戸惑う。

 嗚呼、こんなんじゃ、田舎者丸出しなんだろうな。

 ぼんやりと思いながら、指定された場所に急ぐ。近くのロータリーには、たくさんのタクシーが停まっていた。その中に、紛れ込むみたいにして、1台の乗用車が停まっている。

 あれかな?

 少し駆け足で車に近寄ると、横に立っていた男性が気付いた。彼は片手を振って、少し近づいてきた。

「龍騎くん、久しぶり」

 笑って言う彼は、橘八雲。この人が、父親の古い知り合いで、居候させてもらう人。龍騎は1度手を振って、「久しぶり」と返した。

「いつぶりだろ、母さんの三回忌以来かな」

「ああ……そうだな。最近は墓参りにも行けていなかったから」

 申し訳なさそうに言う八雲に、龍騎は「いいよ」と首を振る。八雲は車の後部座席を開けると、「荷物を」と短く言って手を出してきた。慌ててリュックサックを下ろして、八雲に渡す。数日分の着替えも入った荷物は重かったのに、軽々と片手で受け取って、後部座席のシートに下ろした。

「いい車ではないが、どうぞ」

 後部座席のドアを閉めてから、八雲は助手席のドアを開ける。そこまでしなくてもいいのに、と呟きながら、龍騎は、

「お邪魔します」

 と言って、助手席に乗り込んだ。

 ほんのりと煙草の香りがする。八雲さんって、煙草吸うっけ? そう思いながら、運転席に座った八雲を見た。

「……ん? どうした?」

 シートベルトをしめながら言う八雲に、軽く首を振る。……大人なのだから、きっと吸うんだ。親父も吸ってたんだから、きっと。

 ゆっくりと、車が走り出す。車も人も多い町は走りにくそうだが、八雲は慣れた様子で運転していた。東京に住んで長いから、こんな道も慣れているのだろう。

 エンジンの付いた車からは、聞いたことのないラジオが流れていた。いつも地元のAMが流れていた車を思い出しそうになって、ラジオが流す曲に集中してみる。

 聞いたことのない曲は、卒業ソングらしかった。

 

 

 ついたのは、小さくもないが大きくもないマンション。その一室に通されて、龍騎は部屋の中を見回した。

 汚い、と言うほどでもないが、綺麗とは言えない部屋。物の片付け方が乱雑で、いかにも男性の部屋という感じがした。

「すまないな、これでも片付けたんだが……」

 やはり申し訳無さそうに言う八雲に首を振って、「大丈夫」と笑う。

「友達の部屋よりマシ。……荷物、どこに置けばいい?」

「ああ、適当に置いてくれ。タンスも空けてあるから、好きに使っていい」

 ただ……と、八雲はばつの悪そうに言う。リュックサックを足元に下ろした龍騎は八雲を見上げて首を傾げた。

「……寝室が分けられなかったんだ。俺のベッドの隣に布団を敷くことになるが……」

「ああ、いいよ。大丈夫」

 そんなことか、と笑って、龍騎は「平気」と言う。

 八雲と同じ寝室というのは予想していたし、何より、願ったり叶ったりだ。「すまないな」と重ねて言う八雲に、龍騎は苦笑だけ返した。

 荷物を片付け終わって――――といっても、届いていたダンボール2箱とリュックサックの中身だけだが――――一息ついていたところに、八雲はコーヒーをいれてくれた。

「飲めたか? いつも家では、緑茶だったろう」

 うん、とかっこつけて頷いてみる。本当は苦手だったけど、八雲の出してくれたものを断る気になれなかった。

 申し訳程度に砂糖を入れてもらって、黒いコーヒーを飲む。緑茶とは違う苦味に眉をしかめそうになって、どうにかこらえた。八雲は砂糖もミルクも入れていないコーヒーを平然と飲む。かっこいいな、と少しだけ思った。

 八雲は自分よりも背が高くて、体格が良い。程よく筋肉質で、なのに、目元は優しそうだ。刻まれた皺も、八雲が優しいことを表してる。頬にある傷跡の理由は、まだ教えてもらっていない。

「……龍騎くん」

 マグカップを置いて、八雲は突然改まった。龍騎がそちらを見ると、八雲は龍騎を真っ直ぐに見ていた。

「俺は仕事で長く家を空けると思うし、不便な思いをさせると思うが……その間、この家は好きに使ってくれて構わない。実家のように、寛いでくれて構わないから」

 肩肘張らずに、ゆっくりしなさい。

 優しく言われた言葉に、龍騎もマグカップを置いて頷いた。わかったよ。そう言うと、八雲は柔らかく微笑んだ。

「ああ、それと。1つ頼みたいんだが……長く家を空けたりするから、冷蔵庫の中の管理をお願いしたいんだ。腐りそうなものは捨てて構わないから」

「それならいつも家でやってたから。……なんなら、夕飯も作るよ」

 本当か? 八雲が言う。本当に。龍騎が頷いた。

「それは、助かる。恥ずかしい話だが……実は料理は不得手なんだ」

「だと思ったよ。大丈夫、俺がやるよ」

 マグカップを取って、コーヒーを飲む。油断していたからか、少しだけ眉をしかめてしまった。きょとんと、八雲が少しだけ目を丸くする。

「……緑茶も、置いておこうか」

 苦笑いして言う八雲に、龍騎も苦笑いした。

 

 疲れているだろうから、と。その日の夕飯は出前を取った。

 無理をして若い趣味に合わせたのか、普段からこんな食生活なのか。それはわからなかったけど、届いたのは意外にもピザだった。ピザを食べている八雲なんて初めて見たから、思わずまじまじと見てしまう。おかげで何度か「どうした?」と聞かれてしまった。

 そうしてゆっくりと夜が来て、同じ寝室で寝る初めての夜が来た。ベッドの横に布団を敷いて、ベッドに横になる八雲を見る。

 少しだけ心臓が煩いことに、内心苦笑いをした。女子かよ。そう心の中で呟いて、布団に潜る。

 年の離れた男性と、同じ寝室で寝る。年頃の男子なら全力で拒否しそうなことに頷いたのは、ちょっとしたワケがある。

 おやすみ。優しい声で言われて、おやすみ、と言い返した。こんな夜が続くなら、慣れない東京暮らしも楽しいかも知れない。

 ああ、きっとこれを恋って言うんだろうな。

 そう思って、龍騎は布団の中で目を閉じた。

 

 恋をしている。八雲さんに。

 きっと、あの中学生の夏から、ずっと。