好き、というよりは、憧れのようなものだった。
彼女はいつでも明るくて、俺たちを引っ張ってくれる相手だった。突然俺たちの間に入り込んできた彼女は、すんなりと溶け込んで日常になった。
海。
そう、まるで海のようだった。心地よく波を立てて、さざなみの音が静かに響いていて。ゆっくりとそこに揺蕩っているような、そんな気持ち。
3人で過ごすのは好きだったし、悪くない日々だった。いつでも3人だったし、それがずっと続くと思っていた。
あの日までは。
――――きっと龍騎くんにはわからないよ。
夕暮れのあの日、坂をかけ下っていった彼女。その背中を追いかけられなかったのは、きっと。
彼女のことが何一つ、わからなかったからかもしれない。
夕方、ゲームセンターによっていくことにした。
踏切を超えて、そこにあるゲームセンターへ。お目当てはクレーンゲームのプライズと、リズムゲーム。久しぶりに格闘ゲームをやってもいいかもしれない。
ゲームセンターは、あまり人とは行かない。1人で行って、自由気ままにゲームをして、帰りたいときに帰る。別に1人で行っても変な顔はされないし、ゲームセンターにいる大抵は1人で来た人たちだ。そんな自由さが好きだ。
どこの町でも、夕暮れは綺麗にオレンジ色に染まるらしい。近くのビルに夕暮れが映り込んで、すっかり夕暮れ色に染められていた。照り返した夕日が眩しくて、少しだけ目を細めた。
踏切に差し掛かった。運悪く、踏切はカンカンと大きな音を立て、遮断器を下ろし始める。歩く人々は足を止め、車はゆっくりと停車した。それは向こう側も同じで、線路を隔てて人々は対面する。
カンカンと、うるさい音が鳴り響いた。名前がわからない、踏切に付いた赤いランプが2つ、交互に光っては消える。カンカン、カンカンカン。
ため息を吐いて、目の前を見た。何の気なしに、踏切の向こう側の人々を見る。白い、社用車のような車が1台止まっていた。その両側に、人。
黒い髪を揺らす女が目に入った。
肩まで伸びた髪が、少しだけ冷たい風に揺れる。彼女はこっちを見て、動きを止めた。自分も同じように、動きを止めていた。
龍騎くん。
唇がそう動いた。
カンカンカン
カンカンカンカンカンカンカン
踏切の音が、やけにうるさく響いていく。周りの音が一気に遠退いて、横にいた誰かの話し声すら聞こえなくなる。
「は――――」
名前を呼ぼうとした。
その目の前を、電車が通り過ぎていく。ごうんごうん、がたん、ごとん。大きな音と、風が、目の前に降り注いだ。
長い長い列車が通り過ぎて、ようやく遮断器が上がる。線路の向こう、さっきまでいた彼女はもうどこにもいない。
まるで幻影。夕暮れが作り出した幻覚みたい。走って線路を超えて、未練がましく辺りを見回す。
やっぱりどこにも、彼女はいなかった。
鈴崎花。
それが彼女の名前だった。
高校1年生の初夏、彼女は転校してきた。家庭の事情で、なんて言っていたが、ワケありな様子を1つも見せずに彼女は笑っていた。
偶然席が近かった。それだけの理由で、花とはよく話をするようになった。よく笑うし、よく感情が見える顔だった。初めは、まだ買っていない教科書を見せるくらい。授業の進みが違うことがわかって、少しノートを貸した。そうしているうちに、龍騎の親友である隼人とも話す機会ができた。
ここはまだ馴染みがないから、少し案内してほしい。
そう花が言ったときも、龍騎と隼人は二つ返事で頷いた。
すんなりと、まるで波のように、自分たちの間に入り込んできた。
それから、学校帰りに近所の駄菓子屋で駄菓子を買って公園で食べたり、龍騎の家である神社を紹介したり、夕飯をごちそうしたり。
親友、と呼べる存在になれるくらい、仲良くなった。まるで、はじめからそうだったみたいに。
まるで海のような人だった。笑い声はさざなみの音みたいに心地よくて、浮かんで揺蕩っているような、そんな気分になる。
けれど、海みたいに、底は暗くて何も見えなかった。
深海は暗いのはわかっていた。底に沈む彼女がいることを、わかっていた。
時々、何か思い悩むように海を見ていた。時々、少しだけぎこちない笑みを浮かべた。
私、あと何回、こうやってお話できるんだろう。
小さくそう言ったのを、聞き逃すことができなかった。
――――きっと龍騎くんにはわからないよ。
そう言って、彼女は夕暮れの坂を下っていった。走って、髪をなびかせて。
追いかけられずに、ただ見送った。立ち尽くして、その姿が見えなくなるまでずっと。
あの日の夜、彼女は海に沈んだ。幸い、死ぬ寸前で引き上げられ、それからずっと学校に顔を出すことはなかった。そのまま彼女は転校していった。どこに行ったのかは知らされなかった。
高校2年の夏の終わりから、彼女には会っていない。
家に帰ると、珍しく龍騎くんが起きていた。
深夜1時。大学生なら、このくらいの時間に起きていることは普通だろう。今まで寝ていることが多かったから、少しだけ驚いた。
「あ……」
龍騎くんは自分に気付くとそう声を上げて、少しだけ苦笑いをした。
「おかえり、八雲さん。うわ、もうこんな時間か」
ゲーム機のコントローラーを置いて、龍騎くんは立ち上がる。自分の横をすり抜けると、
「夕飯、あっため直すよ。ちょっとまってて」
そう言って、コンロの火を入れた。
「すまないな、寝てもいいのに」
「いいよ」
笑って、龍騎くんは味噌汁と、おかずを温め直す。
仕事の鞄を置いてジャケットを脱いだら、「そのへんにおかねでよ」と訛りの混じった咎めが聞こえた。苦笑いをして、ジャケットはソファーの背もたれにかけた。
少しして、温め直された夕飯がテーブルに並んだ。申し訳程度の軽食もある。「ちょっとお腹へった」と龍騎くんは笑った。
「龍騎くん」
箸を取りながら、言う。
「何か、あったか?」
海のような色の瞳が、自分を見つめる。
少しだけ伸びた髪が、顔の動きと一緒に揺れて。
「……なにも」
そう、困ったように笑った。
「あ、ちょっとおかず失敗したから。塩辛かったらごめんな」
イントネーションに少しだけ訛りが入る。一口食べると、たしかにいつもより味が濃いような気がした。
「たしかに、ちょっとしょっぱいな」
「あはは」
ごめん、と笑う龍騎くんに、平気だ、と笑う。
まるで海のような少年だった。一緒にいると、まるで船に乗っているときのように心地が良い。笑う声は、波の音のようで。
その深海は暗く、何も見えない。
手を伸ばそうにも、深く、手が届かない。
底にいる彼を引き上げてやりたいと、いつもそう思っていた。